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(4)
「香坂さん、ちょっと見てくれますか?」
 マキちゃんに声をかけられてぼくははっとした。そろそろ朝の5時。スナックの黄ばんだ壁にかかった電波時計が、キビタキの鳴き声で時を知らせるこの時間が、ぼくには一番眠い。
 結婚式場が一軒、レストランが3軒、喫茶店……と、椅子やテーブルを並べ直し、営業が終わったばかりのこのスナックで、「磨き屋」のマキちゃんと一緒になった。マキちゃんは、ぼくと同じく姐さんのところで働く、ピアノ専門の磨き屋だ。何を使うのか知らないけれど、タバコの脂や手垢で曇った店のピアノを綺麗に磨き上げるのが彼女の仕事。そして最後に、椅子を置く位置をぼくに任せる。
 任せておいてもう一度、演奏者の観点からだと言って1センチほど左に動かすのがマキちゃんのやり方だ。そういう個人的こだわりはこの仕事では珍しくもない。

「疲れてるみたいですね、香坂さん」
「マキちゃんはいつでも元気だね」
「いつもではないですよぉー」
 手の汚れを気にしてか、マキちゃんはほつれた前髪を、小指で器用にかき上げて耳にかけた。
 何も入れていないピアスの穴がふたつ覗く。昔の彼氏に開けて貰ったと前に聞いた。
「彼女さんは、元気ですか?」
「うん……たぶんね」
 ぼくも自分の手で鈴村の耳に穴を開けてやりたい。唐突に、暴力的に、そう思っている自分に驚く。
「忙しくても、会う時間は作らなきゃだめですよー。わかってると思いますけど、基本ですからね、基本」
 わかってるけどさ……。

 久しぶりに会えたあの日の二日後、鈴村が持って来た椅子の背のポケットに、最初の手紙が入っていた。

 『このままずっと、真夜中の整頓クラブをしているだけでいいの?』
 とだけ、そこには書かれていた。

 だめなのか? とぼくは心の中で尋ね返した。もう、何度目だろう。
 このままじゃダメなのか?
 焦りがじわじわと足元から這い上がってきて不安になる手前で、ぼくは考えるのを止めてしまう。

「香坂さん、今日も写真、撮りますか?」
 片づけを終えたマキちゃんは、そう言いながら部屋を見回した。
「いや、今日はカメラ、持って来なかった」
「なぁーんだ。手伝おうと思ったのにな。わたし、香坂さんがカメラを構えている姿、好きですよ。あー。だめだめ、構えてるふりだけじゃだめ」
「そっか。持ってくればよかったな」
「そうですよ、好きな物はいつも持ってなきゃだめです。わたしだって、世間が許すならピアノを持ち歩きますよ」
 そう言うとマキちゃんはピアノを持ち上げるふりをして、それから慌てて、じぶんが手をつけたところを布で磨き直した。

 写真は、ささやかに続けていた。姐さんに断って時々職場にカメラを持ち込み、並べ終えた椅子の写真を撮りためてもいる。
 誰もいないオフィスの気の抜けた事務机とキャスター付きの椅子、レストランの円卓を囲む饒舌な椅子たち、カウンターの前で澄ましたスツール、ピアノとの距離を測りかねているように落ち着かない丸椅子、あらゆる反論を押し込まれた会議室のパイプ椅子……
 その写真を見て鈴村は、「うちの画廊で個展を開いたらいいわ」と言った。
 姐さんは姐さんで、「写真集を出したら買うよ」と言ってくれたことがある。
 でもぼくには全く自信がない。
 「夢」を見る才能に欠けているのかもしれない。ただ好きなことができたらそれでいいと思うだけだ。
 いつまでもそれじゃいけないんだろうか。
 鈴村がゆっくりと首を振る姿が目に浮かんでぼくはまた少し苛立った。
 好きなだけじゃ、だめなのか? 

 マキちゃんとモーニングを食べて部屋に戻った。マキちゃんはそのまま寝ないで音大に行くという。若いってすごいなと、3才しか違わないのに感心してしまう。
 そうしていつものように、午後まで寝ているつもりでベッドに転がっていたら電話が鳴り出した。ひょっとして鈴村だろうかと思ったら自分でもおかしいほどはっきりと目がさめたけれど、聞こえて来たのは姐さんのだみ声。

「なんだいなんだい、そのがっかりした声はさ。あんた、今からメッツォに来られるかい? いや、今すぐ来るんだよ、来ないとクビだよ香坂、起きてるかい?!」
 起きているかと聞いたくせに、返事も聞かないうちに電話は切れてしまった。

つづく

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