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(8)
 横になったままぼんやりしていると、玄関でガーンと音がした。ドアが引かれた拍子に、チェーンがぎりぎりまで引っ張られた音だった。
 ぼくは飛び起きて行ってチェーンを外した。

「なんだ。いたんだね」と、ドアの向こうで鈴村はびっくりした顔をしていた。
「お休みなんて珍しいね」と。
 確かに珍しい。
 自分でもいつ以来だろうと思うし、その休みに約束もなく鈴村が来るという偶然も珍しい。珍しいけれど、珍しいと言われるのはいい気分じゃない。まるで……
「居ない方がよかったみたいだね」
「そうね。居ない方がよかった? なんて質問されるくらいなら居ない方がよかったわね」
 質問したいことなら他にもあるんだよ。
 そう言いたいぼくの前をすいと通って、鈴村はキッチンに立った。

「おばあちゃんちからフキを送ってきたの。それで母が下拵えしたのを少し貰ってきた。うちの母が味付けしちゃうと香坂君には濃すぎるじゃない?」
 紙袋から出したタッパーには水が張ってあり、その中で下ゆでしてあるらしい若草色の透明なフキが何本も揺れている。
「そんなこと言ったっけ」
「言ったよ。だから今年はここでわたしが作ってあげようと思って」
「それはどうも……」
「香坂くんが居るって分かってたら、もっといろいろ用意してきたのになぁ。なにかある?」
 鈴村は冷蔵庫を開け、それから戸棚も開けて覗き込む。そういえばお腹が空いていた。
「あ、お米がちゃんとあるじゃない。ご飯炊こうね、ご飯」

 当たり前のようにそこにいて、当たり前のように夕飯の支度をしている鈴村を見ていると、ぼくのくだらない嫉妬が、本当にどうしようもなくくだらなく思えてきた。
 米を研ぐ腕がリズミカルに動く。髪も同じように揺れる。鼻歌も聞こえてきそうだった。……と、急にその手を止めて、
「あのね」と鈴村が言った。
「ん?」
「雷が落ちたんだって」
「なに?」
「雷がね、落ちちゃったんだって。それで、駄目になって、今はもう無いんだって。あの、ケヤキ」
 鈴村と牧野の、夏の思い出のケヤキのことだ。
 数週間前の、まだ牧野がぼくの目の前に現れる前だったら、ケヤキだけではなんの話かぴんとこなかっただろう。
 鈴村はまた米を研ぎ始めた。
「それ……牧野から聞いたの?」
 いつ、話したんだろう。
「雷は、三年前だって」
「そうか……」
「うん、そうなんだ」
 そんな形で彼女が牧野の話を始めるとは思いもしなかった。何年もぼくの前では口にしていなかった牧野のことを、昨日の話のつづきみたいに……。

「ミツくんね、ずっとそのことわたしに言えなかったんだって」
「そう」
 ああ、冷蔵庫に缶ビールの一本でも入っていたらよかったのに……。
「それでね、その椅子」
「うん」
 ビール、買って来ようかな。でも、鈴村は飲まないんだよな。
「聞いてる? 香坂君」
「聞こえてるよ」
 こんなに近くにいるんだから。
 こんなに近くでもわかんないことだらけだけど。
「ケヤキの思い出にその椅子をね、二脚、作ってくれたの」
「そのひとつをキミに?」
「うん。持っていて欲しいって」
 そうか、やっぱりそうなのか。
「それで?」
「それで?って、それだけだけど、なかなか言えなかったんだ。ごめんね」
「いいよ……」
 それを言うなら、ずっと言わなかったことはもっとあるじゃないかと思う。でも、それを口にするのは女々しく思えた。
 
 部屋に、醤油の甘辛い匂いが満ちてきていた。
「なぁ、鈴村は椅子取りゲームって好きだった?」
「え? 椅子取り? なによ急に」
 鈴村はちょっと振り向いてまたコンロに向かう。
 ぼくは立って近くまで行った。顔を見ていたいと思った。
「いや、なんとなく思い出したんだけどね……」
「椅子取りゲームねぇ……。わたしはあれ、音楽が途切れるのがイヤだったな」
「音楽?」
「テンポも速くしたり遅くしたりするし、途中でいきなり、ぱたっとおしまいになるじゃない」
「あぁ……そのタイミングで椅子に座るゲームだからね」
「あれが、いやだった」
 そうか、音楽なのか……。
「おしまいまでメロディーを聴きながら歩いて、曲が終わったときにちょうどすぐそばにあった椅子に座りなさいっていうのならいいのに」
「それじゃゲームにならないな。占いみたいだ」
 鍋の中をかき回す菜箸の先を見ながら、延々ととぎれることなく続くメロディーに合わせて、椅子の周りをゆらゆらと歩く鈴村を思い浮かべた。

 どこに座るんだ?
 キミはどっちに座るんだ?

「そうね、占いみたいね。……きっと、音楽を最後まで聴いて、そのときそこにある椅子が、わたしの為の椅子なのよ」

 箸が止まった。
 カチンとガスを止める音がして、あとは換気扇の音だけになった。
 少しだけ、暗くなった彼女の表情が気になった。

つづく

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