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(9)
 少し沈んだ鈴村の横顔を見ながら、なにか気分を害すようなことを言ってしまっただろうかと急いで考えた。
「どうかした?」
 思い切って口にした。
 さっきまで胸の中にもやもやとしていた苛立ちが消えて、ただもう、彼女の機嫌を取り戻したいと焦っていた。

「あのね……」
「うん、どうした?」
「お醤油、入れすぎたかもしれない」
 なんだ、そんなことかよ。
「いいよ、大丈夫だよきっと」
 怒っているわけじゃないと知ってほっとした。情けないくらい。
「あんなにきれいな緑色だったのに……」
「これだっていい緑だよ」
「そうかな」
「そうだよ」
「そうかなぁ……」
 鈴村は5センチくらいに揃えて切ったフキを一本、菜箸でつまみ上げて電灯に透かして見ている。
 ぼくは自分の頬がだんだんとだらしなく緩んでくるのを感じていた。
 危なっかしい手つきで菜箸を使い、眉を寄せてフキの緑を心配する鈴村……。可笑しくて愛しくて、ぼくは照れ隠しに右手を伸ばし、その菜箸の先のフキを取り上げて口に入れた。
「大丈夫だよ、おいしいよ」
「ほんとほんと?」
「ああ」
「ほんとにほんと?」
「本当だってば」
 そう答えながら、今まで何度こんな会話をしただろうかと考えた。「ほんとほんと?」という時の鈴村の顔がいくつも思い浮かんだ。

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 ぼくがひとり暮らしを始めたのは21才の時だった。
 早期退職をした父親が、これからは海辺で暮らしたいと、大塚の家と土地を売って鹿嶋に菜園付きの小さな家を買った時、ぼくは学校もあったし東京を離れたくはなくて、こっちでアパートを探して残ったのだ。
 ひとりで探すから任せてと母には言っておいて、目星をつけた部屋はみんな、鈴村にも見て貰った。
 不動産屋の若い営業マンは、鈴村をぼくの姉だと勘違いしたようだった。その方が都合がいいのでそのままにしたけれど「なんで妹じゃないのよ」と鈴村はむくれていた。ぼくとしては、新婚夫婦とは言わないまでも、恋人同士に見えないことの方が不満だった。

 あの頃のぼくらは、毎日たくさんの時間を一緒に過ごしていた。少しでも早く会いたくて、アパートの階段を上がるときはいつも駆け足だった。
 今はなんてゆっくりなんだろう。
 密度の薄い時間ばかりが増えて、そしてそれに慣れすぎてしまって……。

 部屋でふたりで食事をするのも久しぶりだった。
 質素だけれど温かい食卓を囲んで、彼女はいつものようによくしゃべった。画廊での仕事のこと、叔父さんに恋人ができたんじゃないかと疑っていること、最近やってきた変なお客のこと……
 10時を回って、彼女が帰らなくちゃと言ったときには少しがっかりしたけれど、家まで送っていく夜道もまた久しぶりで、手をつなぐだけで心が浮き立った。

 途中からぼくは、彼女が牧野の話からはすっかり離れてしまっていることに気づいていた。
 それが意図的なのかどうなのかは分からなかったけれど、翌日から始まる牧野の椅子の展示会のことも、何も、鈴村は最後まで口にしなかった。
 それで、ぼくも何も言い出せなかった。
 牧野の椅子をレイアウトしたことも、写真を撮ることも、おそらく彼女は牧野から聞いて知っているだろう。知っているだろうけれど、やはりそれは本来なら、ぼくから言うべきことなのかもしれない。

 鈴村にひとこと「がんばってね」と言ってもらうだけで、どれだけ心強いだろう。

 そう気づいたのは、彼女がひらひらと手を振りながら、自宅のあるマンションのエントランスへ消えてからだった。 
つづく

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