3月の
ものがたり

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---あの子にあげた第二ボタン---
 坂口がボートハウスのトレーナーを着ていたのには笑った。
 素直に懐かしくて、もう、笑ってしまうしかないじゃないか。あの水色の色あせ具合はどうだ。
「おい坂口、よくそんなもんを着て来られたなぁ」
「ばかやろ。ここに来てから着替えたに決まってるだろ。なぁ? 見てたよな、中沢、俺のお着替えタイム」
「中沢?」
 誰だっけ? くらいの気持ちで振り返ったら、由加利の顔がすぐそばにあった。由加利、そう、中沢由加利だ。肩より少し長めの茶色がかった髪もそのまま、上目遣いで俺を見て怒ったような笑い顔も、目尻のしわを除けば高校生のままだ。

「いやだな、前田くん、私のこと忘れちゃった?」
「いや、ほら、あれだ、由加利だろ? 全然変わってないよ」
 中沢という名字がぴんと来なかっただけで、忘れてなんかいない。むしろ、この同窓会の連絡をもらったときから、由加利に会えることを期待していたくらいだ。そんな事は言えないけれど……。
「前田くんもあんまり変わってないね。そうだ、ねぇ、留美子はどこ?」
「ん、アイツは今、実家に帰っててさ、今日は来られないんだ」
「えー、来てないの? 残念だなぁ」
「なんだよ、留美ちゃんは来ないのかよ」と坂口までが言う。
「うん、みんなによろしくって」
「ねぇねぇ、それじゃあ、私の携帯番号教えるから、留美子に伝えておいてよ」
 そう言いながらバッグから携帯電話を出しかけて、「そうそう、これも留美子に渡したかったんだ」と、由加利はなんの色気も無い茶封筒を俺の手に押し付けた。
「なに? これ」
「あ、今は見ない方がいい」
 みんなの手前もあるので、そう言われるまま上着のポケットに突っ込んだけれど気になる。由加利は、
「留美子に頼まれたものよ」と笑った。
***

 可もなし不可もなしといった同窓会だった。それぞれがそれぞれの社会で頑張っている、半ば予想通りの顔ぶれ。同級生同士で結婚したのは俺と留美子だけだから、ふたりで一緒に参加していたら、なんだかんだと話のネタにされてしまったかもしれない。留美子は来られなくてちょうど良かったんだ……

 高校の頃と変わりないような、様々な会話を反芻しながら、ほろ酔い気分で実家のある駅に着いた。どこからかジンチョウゲの香りがしてくる道を歩きながらも、高校時代のことが思い出される。テニスのラケットの入った大きなバッグを背負い、疲れた足を引きずりながら歩いた道だ。あの頃はこの香りの正体も知らなかったし、道沿いにこんなに梅の木があることも、気づいていなかった。いや、梅がどんな花か、知っていたかどうかも怪しいな。

 実家の玄関に立って、親父の表札を見上げた。
 『前田造園 前田壮一』
 ああ、ここは親父の家なんだなぁと、しみじみと実感する。親父の家であって、俺の家じゃない。
 そっと扉に手をかけると、思った通り鍵はかかっていなかった。そう確認してからガラガラっと、できるだけ大きな音を立てて扉を開けた。「ただいま」は言い難かった。

「あー、やっぱりパパだパパだ。お帰りなさーい! なさーい!」
 7歳の娘の美樹が廊下の途中から器用にすべって来て抱きついた。そういえば子供の頃、俺も弟の樹(たつる)とよくすべって遊んだものだ。そのせいばかりではないだろうけれど、真ん中あたりが微妙にすり減った廊下だ。
「お帰り、繁、早かったね。ご飯、食べて行くでしょ? お母さんたら張り切ってちらし寿司作ったのよ」
 美樹の後ろから現れた、3つ違いの姉貴(この人が廊下をすべっているのは見たことが無い)に小声でそう言われ、俺はしぶしぶ靴を脱いだ。玄関先で挨拶だけしたら美樹を連れて家に帰るつもりだったけれど、そういうわけにはいかないか……。

 自宅とは違う黄色っぽい灯りの下、昔と同じように茶箪笥の前に親父が座って飯を食っている。ちらっと俺を見上げ、「忙しいか?」と訊くから「まあね」と答える。何度もくり返したパターン。
「鹿児島の、留美子さんのお父さん、具合はどうなの?」 
 割烹着の裾で手を拭きながらおふくろが顔を出す。
「うん、まぁ、手術はうまくいったらしいよ」
「前立腺がんだってねぇ……。お父さんも最近ほら、おしっこが調子よくないって言ってるじゃない? 一度診てもらってきなさいよ」
「俺のは一般的な老化現象だよ」
「でもねぇ」
「ねぇねぇ、廊下がどうしたの? おじいちゃんちの廊下、いつもの通りだったよ? 美樹、すべったもん」
 一瞬の間をおいて、大げさなほど親父は笑い出した。
「美樹ちゃんがいると笑えるねぇ」と、おふくろも笑う。
「太郎ちゃんもうちに置いて行けばよかったのにねぇ」

 俺は聞こえないふりで箸を動かした。留美子に言わせれば、次男の太郎までここに置いて行くどころか、本当なら美樹も一緒に鹿児島に連れて帰って病気の父親を喜ばせてやりたかっただろう。そういうところ、この人たちは思いやることをしない。
「やっぱり大勢で食べると美味しいな。なぁ、美樹?」
 という親父の言葉も耳に痛い。長男なのに稼業をつがないどころか同居もしていないことを暗に責められている気がする。留美子がここにいなくて本当によかった。
「繁、おかわりは?」
 そう言って姉貴が出した手の平に茶碗を乗せた。姉貴のその左手から結婚指輪が消えてどのくらい経っただろう。この人はもうずっとこの家にいるんだろうか、いてくれると助かるんだけどなと勝手なことを思う。
 
 そういえば。由加利の薬指はどうだっただろう。まだ独身で、通訳として働いていると言っていたけれど、決まった恋人はいるんだろうか、はぐらかされたまま訊き損なってしまった。
 主婦もいるからと早い時間から始まった同窓会だった。きっと坂口たちは二次会三次会と称してまだ飲んでいる時間だろう。由加利も参加しているんだろうなと思うと妙に悔しい。こんなことなら、ここで美樹を一晩預かってもらうことにしておけばよかった。そうしたら今夜はひとりで……と、らちもないことを考える。が、すぐに、「美樹はおじいちゃんちの天井の模様を怖がってるの。だから夜はちゃんと家に連れて帰ってあげてね」と言った留美子の言葉がよみった。一晩預けるなんて無理だったんだ。

 留美子の実家は、父親が定年退職後に、もともとの出身であった鹿児島に帰ってしまって3年がたつ。父親ががんの手術をすることになって、留美子が一週間の予定で羽田を発ったのが昨日。冷凍食品やらなんやら、万全の支度を整えて「できるだけ前田の家の世話にはならないでね」と言い残して出かけた。世話をかけたくないには、うちの両親に対する意地みたいなものなんだろうと思う。

 結婚してしばらくは、俺と留美子もこの親父の家で一緒に暮らしていた。そのうち、おふくろよりも舅である親父と折り合いが悪くなって、留美子はストレスをためておかしくなってしまった。ことあるごとに姉貴と比べられるのがいやだったのだと、話してくれたのは最近になってからだ。
 俺も早く「自分の城」が欲しかったし、植木職人になろうとしている弟が家を出ているのに、継がない自分がこの家に住んでいることに居心地の悪さを感じ始めていた。それで、「住む家があるのにそんな借金をして苦労することはないのに」と、おふくろにもさんざん言われながらローンを組み、なんだかんだありながらも自分の家を買ったのが2年前。実家の近くに買ったのが、最大限の譲歩だった。

 同窓会の席でそんな話を、隣りに座っていた由加利にちらっとすると、
「それってのろけ? 前田くんは親よりも留美子をとったってことだよね。留美子がうらやましいなぁ」と、由加利はそういって、タバコを持った右手の肘で俺の腕を小突いた。
「タバコなんか似合ってないぞ」
 と、俺はあわてて話題を変えた。
「あら、似合わない人が吸ったらいけないなんて法律あった?」

***
 高校の頃の由加利は背も低くて、周りの他の女子よりも子供っぽく見えた。留美子もどちらかといえば幼な顔だったけれど、由加利と並ぶときだけは、少し優位に立っているように見えたものだった。
 由加利と留美子のふたりは中学からの友だち同士だった。俺は、由加利と同じクラスで、留美子とは部活が一緒だった。よく話したりはしたけれど、女子ふたりの、どちらとも俺は同じくらいの距離にいて、義理チョコさえもらったこともなかった。

 そんな高校時代も終わる卒業式の日だった。坂口たちと春休みの計画をしているところに由加利がやって来て、「前田くんの制服の第二ボタン、ちょうだい。留美子が欲しがってるの」と言った。
「留美子が?」
「そう、留美子が」
 由加利は当然でしょという顔で右手を差し出した。
「おーい、おまえ、隅に置けないなぁ。留美子か、いいじゃん留美子。渡してやれよ、こんなボタンのひとつやふたつさ」
 半ば強引に坂口が引きちぎって、第二ボタンは由加利の手に渡り、留美子に渡った。

 だからといってそれからすぐに、俺たちの関係に変化があったわけではない。
 第二ボタンを欲しがったという留美子のことを意識はしたし、自分のボタンを持っているんだなぁと、折に触れて思い出したりもした。けれども、大学での新しい生活の方が刺激的で、そのうちにガールフレンドもできたりして、なんとなく留美子とも由加利とも連絡をとらずに日々は過ぎて行った。

 再会したのは三年後、大学野球の応援に行った日だった。優勝した訳でもないのに飲み会に繰り出して酔っぱらった仲間が、日比谷公園の噴水に飛び込んだりした。その大騒ぎの向こうに、その頃はやりのスタジャンを着た女子大生たちがいて、そこからまたぽつんと離れたところに一人、冷めた顔で立っていたのが留美子だった。

 幸いにも少し酔っていた俺は留美子に駆け寄って、陽気にぐるりとその周りを回って留美子を驚かせた。誰だろうと不審そうな顔が笑顔に変わり、留美子が警戒心を解いていく様子が手に取るように分かって嬉しかった。
 えんじ色のスタジャンの背中にはよく読めない筆記体の文字があって、白い袖には小さくラケットの刺繍があった。
「テニス、まだ続けてるんだ?」
「前田くんは? 野球? ……じゃないみたいね。噴水は? 入らないの?」
「入るわけないじゃん」
「じゃ、どこか行かない?」

 サークルの流れでここまで来たけれど、こんな大騒ぎだとは思わなかった。練習のあとでくたくたなのにと言いながら、でも、ふたりでどこかに座ることもなく歩き続けた。それが、最初のデイトになった。
 それから平坦な交際を経て社会人3年目、留美子と俺は結婚した。
 あのとき留美子を見つけて声をかけたのは、第二ボタンのことがあったからだと今でも思う。
 こいつは俺のことが好きだったんだよなと、そういう自信があったから誘えたのであって、そうでなければ……。

 そういえば、あの第二ボタンを留美子はどうしたんだろう。
 そう思ったことが一度もなかった訳ではないけれど、留美子に聞いてみることはなかったし、結婚してからはどうでもよくなった。今夜は、由加利と会ったからこそ思い出したのだ。そして、そうだ、あの封筒……

 上着のポケットを探りながら、頭に浮かんだことはもう確信に変わっていた。渡された時の手触りもそうだったじゃないかと思い出す。

 逆さまに振ると、ころんと出て来た制服のボタン。
 さらに振ると、名刺大の紙切れが落ちて来た。

「ごめんね、私がずっと持ってた。
 留美子に返すよ」 

***

 実家での夕食が済んですぐに、美樹をおぶって自宅に帰り、どうにか寝かしつけてから俺は、登録したばかりの由加利の携帯に電話をした。
 ひょっとしたらまだどこかで飲んでいるのではないかと思ったけれど、電話に出た由加利はもう自宅にいたらしく、会った時よりも静かな声で「かかってくると思った」と応えた。

「見たよ。ボタン」
「あれね、ごめんねって、留美子に言っておいてよ。ううん、前田くんにもごめんねなんだけどさ。……ね、今、話してていいの?」
「大丈夫だよ」
 これからどこかで会って話すことだってできるぜと、いたずらに喉まで出かかった。
「あれね、第二ボタン、留美子が欲しがってるからって言ったのはうそだったんだ。
 ボタンが欲しかったのはね、私。
 留美子はさ、……うん、あなたの第二ボタンが既になくなっちゃっているのを見て、ちょっとだけ、がっかりしてたわ。まぁ、遠い昔の話だけどね」
 なんだ、ちょっとだけ、かよ。
「どうしてそんなことしたわけ?」
「どうしてって、うーん、前田くんを試したというか、よく思い出せないけど、屈折してたのよ、あのころの私」
「今になって返してよこすのも、屈折してると思うけど?」
「そうだね」
 由加利はふっと笑って、それから電話機の向こうでタバコに火をつけたようだった。
 長く話すつもりなんだなと、俺もベッドに腰をかけた。
「私はさ、ほら、前田くんや留美子と違って浪人生の身になったじゃない? でも半年くらいで、まぁ、受験勉強がいやになってね、息抜きのつもりで上海に単身赴任してた父のところに行ったの。それがそのまま居座るようになっちゃって、帰って来たら前田くん、留美子と結婚してた。びっくりよ」
「へぇー」
「へぇーじゃないわ」
「じゃぁさ、もしも、いや、もしもって言ってもしょうがないか」
「ううん、聞きたいな。もしも……なに?」

 卒業式の日、由加利が留美子の使いだと言って第二ボタンを取りに来た。
 あのときに俺は、がっかりしたのだ。なんだ、そうか、由加利自身はまるで欲しがっていないということなんだなと。
 もしも、由加利が第二ボタンを欲しいと言ったのであったのなら……俺はどうしていただろう。今頃、留美子ではなく由加利と結婚していたかもしれない……?

「それはどうかなぁ……」
 ふふふと笑う由加利の声を聞きながら、足を組み直して俺もタバコに火をつけた。
 サイドテーブルには、封筒に戻した第二ボタン。今更これを、留美子になんて言って渡せばいいんだろう。なんの意味がある? どうせ留美子は関心も持たないような気がする。

「このボタンは、由加利がそのまま持っていればよかったじゃないか?」
「そう? じゃ、やっぱり返してもらおうかなぁ。ねぇ、いつならいい?」

 留美子が帰って来るのは何日だっただろうかと、俺はカレンダーの前に立った。由加利に会う日にはもう一度、美樹を実家で預かってもらわなきゃいけないな。
 それを喜ぶだろう両親の後ろに、もの言いたげな姉貴の顔が思い浮かんだ。
(終)