8月の
ものがたり
---それってすごく大事なちょっとだと思うよ---
気の早い子供たちが飛び込み台の前に並んでいた。どの子も日に焼けて、ひょろりと痩せてお腹がぺしゃんこで、健康そうにも不健康そうにも見える。監視員がやって来て、台に上る階段に掛けられていた簡単なチェーンをゆっくりと外しながら、「泳げるよな?」と念を押した。当たり前だとばかりに誰も返事をしない。
笛の合図を待ちかねたように先頭の男の子が台に上がる。階段にして5、6段だ。そう高くもない。
助走をつけ、小さな飛び込み用プール(そこだけ遊泳用の場所よりも深さがある)に、少年は膝を抱えるようにしてドボンとしぶきを上げながら飛び込んだ。浮き上がって来たその子がプールの淵まで泳いだところでまた監視員が笛を吹くと、次の少年が跳び込む。
どの子も、どの大人も、脚から、あるいはお尻から、ぼちゃんと派手に落ちることを楽しんでいる。
その音を聞きながら私は、木陰になっているコンクリートの階段状の場所にレジャーシートを広げ、小さなビニール座布団を敷いて座っていた。座布団の中身は幼児用の黄色い防災頭巾だ。去年まで受け持ちだったすみれ組のマコトの忘れ物で、マジックで大きく「なかがみまこと」と名前も書いてある。
忘れ物は防災頭巾だけではなかった。
幼稚園で使っていたパステルもねんども、マコトが描いた絵も一緒に作った工作も、そっくり置いて卒園していった。忘れていったのではない。捨てていったのに決まっている。
園の玄関先のゴミ箱の上に、それらは無造作に置かれていた。見つけたのは、同僚の朋美だった。
「文恵先生、これ、どうしますか?」と、朋美は言ったけれど、どうする気も私にはなかった。朋美はわざわざ仲上宅へ電話をしたけれど、案の定、勝手に処分してくださいと言われただけだった。
マコトの在園中、マコトの母親とは何度も衝突した。マコトが園であった不快な、あるいは不可解な出来事を家で報告する度に苦情が入った。「子育ての経験のある先生じゃないと駄目だ」というのがマコトの母親の口癖で、繰り返し私の無能さを主張しては担任の交代を申し入れた。
どうせ幼稚園の先生など誰にでもなれるのだと見下していることを隠そうともしない態度を始め、誰から見てもマコトの母親には非常識な物言いが多かった。その非常識な人間に非常識呼ばわりされるイライラを、私は受け流せずに溜め込んでしまったらしい。
マコトの卒園後、あからさまに「あの親子がいなくなってせいせいしたわ」と言う同僚もいたけれど、私は全然だめだった。
自信を無くしたままの自分をもてあまし、夏になってそれはさらにひどくなってしまった。
週末や休みの日、園児やその親たちと出会う確率の少ないこの施設の屋外プールを選んで通い始めたのは、いくらでもエアコンの効いた部屋で寝ていられる自分が怖くなったからだった。太陽の下にいて、せめて体力だけは維持しておきたいと思うのは、体育会系だったころの名残りかもしれない。
「また来てたんだな。あんた、高校んときA組にいた松本だろ?」
飛び込みプールの監視員、カバ太が初めて私に声をかけてきたのは、一時間に10分ごとの休憩時間が終わり、子供たちが我先へと水に戻っていくときだった。
「C組のカバ……蒲田くん……だよね?」
「へーえ、覚えてたんだ」
高校時代、蒲田はラグビー部の主将だった。ラグビー部といえば他校に誇れる唯一の運動部だったから、校内でカバ太のことを知らない人などいなかっただろう。と、そう言いかけてやめた。むかし話が嬉しくないことだってある。
「毎日そこに座ってなにしてるわけ? こんな辺鄙なプールじゃナンパもありえぇし」
カバ太は右手で太い左の腕をぱんぱんと叩く。手首で金色の細いチェーンが揺れる。
「だから、いいんじゃない」
送迎バスがあるとはいえ、プールは駅からは遠く、にぎやかな街から離れた山の中だ。
実際、泳いでいるのは周りにあるコテージに停まっている家族連れとか、田舎臭いカップルばかりで、オヤジのちょっとした視線さえ無視すれば、だれも私などには話しかけて来ない。
「今は? なにやってんの?」
「幼稚園のセンセ」
「へー、意外だな。もっとなんか、華やかなことやってるかと思ってた」
「高校の時、飛び込みなんかやってたから?」
「ああ。松本って、ちょっとしたスターだったじゃん?」
「それは蒲田くんでしょ」
あまり一般の人のやらない競技をしたくて選んだ飛び込みだった。けれども、自慢できるような成績を収めるようなことはなかったし、そのまま本格的に続けていく気もなかった。
ちょっと人よりもできる。でも、本当に出来る人の中で比べたら全く歯が立たない。
なんでもそうなのだ。飛び込みも、ピアノも、英会話も。
幼稚園の先生になったのも、保育科に受かって、英文科には落ちたからだ。それだけでなんとなくここまで来てしまった。「小さい頃からの夢だったの」といきいきと働く朋美のそばで、私には向いてなかったのではと思い続ける毎日だ。
「私はさ、何をやっても、大したこと無いのよ」
「そうか」
そうか? と疑問に思ったのか、そうかと納得したのか、わかりにくいイントネーションを残して、カバ太は飛び込みプールに戻っていった。
次の日も、また次の日も、カバ太は私を見つけると声をかけてきた。喜んでいるのか呆れているのか、その表情からはわからなかったけれど、休憩時間になると、私のいる階段に来て腰を下ろした。
カバ太はアルバイトをしながら整体師になる勉強をしているらしい。そういえばこのプールがあるのはそういった身体に関する施設が集まったビレッジの一部だ。大学を出て一度は食品メーカーに就職をしたらしかったけれど、詳しいことまでは話さないし、私も聞かない。ラグビーは、大学に入ってからはずっとマネージャーだったと言った。他にいくらでも優秀な選手がいたからなと。
「そのかわり、マネージャーとしての俺は俺で一流だったぜ」
やっぱり? と思った。カバ太は高校の頃のままの、華やかな選手生活をしてきたようには見えなかったからだ。だからといって陰があるというわけではなく、なにか他の自信のようなものがカバ太からは感じられる。それは高校時代には見られなかった種類のもののようだ。
私は急に打ち明け話をしたくなって、マコトを巡る一件についてカバ太に話した。
「自信ないっていうけどさ、松本にも先生として、他の人よりちょっと出来ることだってあるんじゃないか?」
「ないよそんなの。……そうだ、むかし話なら園の誰よりもたくさん、そらでできるけど……」
本を持って読んであげたり紙芝居をするよりも、そらで話す方が私は好きだし、レパートリーもたくさんある。けれどそれくらいは「人よりできる」なんて言えない。別に、そらで話す必要はないのだ。
「むかし話か……。俺さ、自慢じゃないけど、桃太郎と金太郎の区別もつかないんだ。な、なんか話してよ」
「ここで?」
「ああ」
プールサイドでむかし話も変だろうとは思ったけれど、別の場所もない。
園児のように嬉しそうに笑っているカバ太の横で私は、世間話をしているふりをしながら小さめの声でむかし話をした。最初は桃太郎。10分の休憩時間には、驚くほどぴったりの長さだった。
本や紙芝居の通りじゃなくても、多少の脚色をしても、文句を言うマコトの母親はここにはいない。
そうやって休憩時間ごとにひとつかふたつ、カバ太にむかし話をしながらときどき、そうだ、ここは今度こんな風に園児に話してやろうというヒントも浮かんできた。園のことを忘れるつもりがいつの間にかまた、引き込まれている。
「いいんじゃねぇの? それで。落ちたまんまじゃしょうがないじゃん」
たぶん、カバ太にもそんな時期があったんだろう。そう思うと、素直にその言葉がうれしかった。
「ところで俺さ、赤ずきんちゃんの前にばーさんを食っちゃうオオカミの気持ちがわかんねえんだけど」
「そう? 私は赤ずきんの無防備さが嫌いよ」
「食われちまってもしょうがねーよな」
カバ太が下を向いたまま小声で囁くように言うから、肩をぶつけてくすくす笑ってしまう。
「おまえの話、面白いよ。向いてると思うな、幼稚園の先生」
「そうかな」
「人よりちょっと何かができる。そのちょっとって、実はすげー大事なちょっとじゃないか? ゼロじゃないんだから」
そう言ってカバ太は立ち上がった。休憩時間が終わってプールサイドで休んでいた子供たちもまた、一斉にプールに戻っていく。
そのときだ。
足下にスイカの柄のビーチボールが転がってきた。それから「あー! 本当にまつもとふみえ先生だ!」という声とぺたぺたという足音が近づき、子供がしゃがんで私の顔を覗き込んだ。
マコトだった。
「先生どうしてここにいるのぉ? ひとりぃ?」と、マコトは大きな声を上げる。
どうしてそこにいるのか聞きたいのはこっちの方だ。
すぐ後ろからマコトの母親が歩いて来るのが見えて、私は慌てて立ち上がった。園児の保護者にはきちんと挨拶をしなければという習慣からだったけれど、立ち上がった拍子に膝にかけていた大きなビーチタオルが落ちてしまった。
むき出しになった脚に母親の目線が来るのを感じる。下から上へ、なにか汚らわしいものでも見るように。
またこういう日に限って私は、一番露出の激しい水着を着ているのだ。
「先生、一緒に遊んでよ、先生!」
先生先生と、まことの声は場違いなほど大きく響くから、「なんの先生なんだ?」というように視線が集まる。しかもマコトの母親は何も言わず、苦々しそうな顔で立っているだけだ。
「先生、ねぇ、先生ったら!」
今にも私の腕を引かんばかりにマコトが言う。
私はみっともない中腰になったままどうしていいかわからない。
その時、ひゅーと指笛が聞こえた。マコトと私の間に一本の線を引くようにもう一度、ひゅーと強く響いた。
「手本を見せてやってくれよ、先生」
カバ太が私を真顔で手招きしている。
「おまえらどけ。次はあのおねーちゃんの番だ」
並んでいた少年たちは、「えー、なんでぇ」と不服そうな声を上げながらも、カバ太ににらまれて場所を空け始めた。
私はマコトの母親の視線から逃れるようにして飛び込み台へ向かった。
「先生も飛び込みするの? さっき、ママもやったんだよ! すごいでしょ!」と、マコトの声が追いかけてくる。
ふん、ぽってりと太ったキミのママに、どぼんと落ちる以外にどんな飛び込みができるのよと、おかしさがこみ上げてきた。初めてマコトの母親に対して優越感を感じた。背中を強く意識しながら階段を上った。
カバ太が私の腰の辺りを注視しているのが分かる。きっと、マコトの母親も見ているだろう。見てなさいよ。
私は大きく息を吐いた。
今日はまだ水着に着替えてから水に触れてもいない。もちろん準備運動もしていない。いきなり飛び込んだらどうなるだろう。もしかしたら死ぬんだろうか。
どちらにしろ、きっとカバ太が水からあげてくれるだろう。
「いいか、飛び込みってのはな、このおねーちゃんみたいにやるんだ。見とけよ!」
大きな声でそう言ってカバ太が笛を吹く。
私は一度台の先まで言ってから、歩幅を計って階段のそばまで戻った。
ステップを踏み、きっちりと腕を伸ばし、出来るだけ高く跳んでからすっと、音も立てずに頭から水に滑り込んだ。
できた。イメージ通りだ。
水に入る直前、歓声が聞こえたような気がした。もちろん、空耳かもしれない。
それでもいい。
水の中に強くとけ込みながら、今度は生まれ変わることをイメージする。
そうだ、いつまでも落ちたままでなんかいるもんか。
あっけないほどすぐに近づいた底を思い切り蹴って、私は水面を目指した。
(終)
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