(14)いつか、思い出話
 久しぶりの長電話。携帯電話じゃなくて、家の電話。相手は誰なのか、聞いていれば分かる。

「もう慣れた?」
 それもう、3回は言ったよ、レーコさん。
「そう、よかった」
 と言って、ちょっと寂しそうな目をするのも3回め。
「わたしも慣れたよ。泣いてるわけないじゃん。毎日元気だよ」

 一通りの近況報告をし終わると、それ以上を話しあぐねて、いつもレーコさんの方から理由をつけて先に電話を切る。
 今夜もそろそろ時間を気にして、ちらちらと時計を見ている。
 テーブルの上には、まだ封をしたままのジャムの瓶が乗っていて、レーコさんは時々それを指で突いている。
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 昨日はアサコさんが遊びに来た。
 アサコさんは以前によく遊びに来ていた、ハラッポと共通の友だちのひとりだ。

「なんだかもう、秋だねぇー」
 そう言いながらアサコさんは、乱暴にサッシを開けるとレーコさんちの小さなバルコニーに出た。きっとタバコを吸うためだ。
「アサコがひとりでふらっと来るなんて珍しいね。お土産なんか持って」
「そう? あぁ、いい香りがする。わたしさ、金木犀の香りをかぐと思い出すんだよねぇー……」
「そういう、金木犀の思い出話をする人って多いよね」
「なによレーコ、話の腰を折ることないでしょ」
 レーコさんが折らなきゃアタシが折ってやりたかったけどね。
「ごめん。アサコがそんな昔話をするとは思わなくて……」
 レーコさんは部屋の中からアサコさんに灰皿を差し出した。
「じゃあさ、レーコには昔の話じゃなくて、新しい話をしてあげる」
 そう言ってアサコさんは、すっとタバコを吸い込んでもったいつけてから続けた。

「昨日ね、わたし、原くんとこに行って来たよ」

 灰皿にたばこをトントンとして、それからまたゆっくりとくわえて、レーコさんの顔色を見てる。やな感じ。
「あんまり良いお天気だから、キダくんとドライブしようってことになってね。行き先が決まらなくて、じゃぁ、っていうんで原くんのとこまで突撃お宅訪問」
 ふーん。キダっていうのもここに遊びに来ていたひとりだね。
「元気だった? ……原くん」
「うん、元気だったよ」
 それからアサコさんはたばこを消して部屋に戻ると、サッシを半分まで閉めた。なんだか急に静かになる気がする。
 
「ねぇ、レーコと原くんてさ、なんかあったでしょ」
「なんかって?」
「なんかっていうのは、なんかよ」
「なんにもないよ」
「そうかな。つきあってたんじゃないの? まだ隠すってことは、まだ終わってないってこと?」
「違うわよ。勝手な想像しないでよ」
 レーコさんは本気で不愉快そうに言った。
 アサコさんは尖った爪で、アタシの水槽をなぞるようにしながら何か考えている。赤い爪が右から左、上から下、あんまり動かすからアタシは目が回りそうだ。

「金木犀の思い出って言えばさ、切ない恋のお話が多いよね」
「さっきから、何が言いたいの?」
「それじゃ、思い切って言っちゃうけど、原くん、ひとりじゃなかったよ?」
「知ってるよ」
 レーコさん即答。アタシは知らなかったけど。
「なんだ。知ってたんだ」
「だから、べつに原くんとはなんでもないって言ったじゃない」
「そうかな」
 アサコさんはつまらなそうにまた、たばこをくわえた。
 
「せっかくレーコの話を聞いてあげようと思って来たのに、関係なかったのか」
 聞いて上げるって、ただの野次馬じゃん。
「でもまぁ、レーコよりも彼女の方が原くんとぴったりくるんだけどね」
「……会ったの?」
「会ったよ。一緒に写真も撮った。見る?」
 アサコさんはそう言うと、携帯をいじり始めた。
「いいよ、見せてくれなくて」
 そう言ってレーコさんが座っていた椅子から立ち上がりかけると、
「ほら、これ、原くんと彼女」
 アサコさんはテーブルの向かい側からワイン色の携帯電話をレーコさんに手渡した。
 レーコさん、わざと画面に手が掛かるようにぎゅっと受け取った。それから素早くどこかのボタンを押して、「へぇー」と言いながらパタンと折り畳んで返した。
「へぇーって、ちゃんと見た?」
「見たよ」
「どう思う?」
「どうって、人の彼女の顔を見てあれこれ言うのも失礼じゃない」
「あら、誉めるなら良いじゃない? 可愛い子でしょ? まだ若くて、純粋そうで……」
「そう……ね」

「やっぱりなんかあったんでしょ」
「しつこいわね」
「レーコに片思いは似合わないからね。早く切り替えた方がいいよ」
 アサコさんはそう言ってニヤっと笑った。確かにニヤッと、だった。
 いやなやつだ。
 アタシの、いやな奴リストの第一号にしてやった。
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 そうして、話を戻すと今、レーコさんは時計を見ながらハラッポとの電話の切り上げ時を見計らってる。
「そうそう、アサコとキダくんがそっちに行ったんだってね。うん。幸せそうだったって、聞いて安心した」
 レーコさんの左手は受話器のフックのところにかかっている。
 一度、ハラッポの方から切られて意外にもしょげたことのあるレーコさんは、どうしても自分から切りたいんだろう。
「写真も、見せてもらったよ」
 あ。見てないくせに。
「え? そうなの? なんだ、そうなんだ。ううん、どうしてキミが謝るの? いいよ、その話はもう。ねぇ、もう切るね。またね。おやすみ。……おやすみ」
 受話器を耳から話すと、レーコさんはすぐにフックを押した。そうして押したまま、そっと受話器を元に戻す。何かのおまじないみたい。
 
 じっと見ていたアタシの方を、レーコさんが振り向いた。アタシは慌てて、底の方にもぐって、沈んだ餌を探す振りをした。
「ごめん。ご飯まだだったっけ?」
 そう言ってレーコさんは水槽のふたの隅から餌をひとつまみくれた。(夜食だ!)
 それから、アサコさんとは違う肌色の爪でこつこつと水槽を叩いて、
「ねぇ、信じられる?」
 ってつぶやいた。
「アサコの撮った写真てね、猫の写真だけなんだって。引っ掛けたのね、アサコのやつ……」

 なんだ、そうだったのか。

「でも、アサコの嘘はきっと、写真のことだけだね……」

 どういうこと? ねぇねぇ、どういうこと?
 アタシにも分かるように教えてよ。ほらほら、もっとしゃべってよ、レーコさん!
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