(17)柚子ひとつ
 電話でレーコさんが、少しだけ苛立ちの含まれた静かな声で話している。
「いいとか悪いとか、わたしに言わせるのはずるいよ。すぐそこまで来ているんでしょ? 寒いんでしょう? ……来るんでしょ?」
 そう言って受話器を置くと、電話に向かって「ばか」って言った。ばかって言ったら自分がばかだ。そのばかにばかって言われたからには、その相手は相当のおばかさんだってのがアタシたち金魚の世界での常識だよ。人間はどうか知らないけど。

 しばらくして、そのおばかさんが寒そうに背中を丸めてやって来た。手袋を外して、キーホルダーと携帯電話と小銭をポケットから出してアタシの水槽の横に置いて、上着を脱いで椅子に掛けて……って、そこまでの動作はスムーズだったけど、目が泳いでいる。
 ハラッポ……久しぶりじゃん。

「ちょっと痩せたね、原君」
「そうかもしれない。ずっと忙しかったし、まだ慣れてないし。
 レーコさんは? 変わりない?」
「おかげさまで……」
 なんだ。もっと感動の再会ってのをするのかと思ったら、そうでもない。ふたりとも昨日の続きみたいに淡々としゃべっている。ただ、目を合わせようとしない。

「どうしたの? 急にこっちに来るなんて」
「バイクをさ、前のアパートの管理人さんに預けたままで、ずっと置きっぱなしだったんだ。すぐに取りに来るつもりだったんだけどなかなか来られなくて……」
 ハラッポが遠くへ引っ越したのっていつだったっけ……。もう何ヶ月も前だろう。

 レーコさんは、昨日作ったかぼちゃと小豆の煮たのをテーブルに乗せて、それからほうじ茶を煎れた。
 ふたりで向かい合って伏し目がちにかぼちゃをつつきながらお茶をすする。まるで、じぃ様とばぁ様みたい。

「こんなに寒くなってから取りに来るなんて……」
 やっぱりおばかさんだねぇ。
「そうなんだけど、置いたまま年を越すのもなんだから……」
「それでわたしのとこにも来たの?」
「うん。……え?」
「うやむやなままで年を越すってのもなんだから……ってことじゃないの?」
 お、決着をつけるのか?
 かぼちゃに小豆を乗せて口に運びかけていたハラッポは、手を止めて顔をあげた。
「そうじゃないよ」
「……だよね。もうはっきりしてるもんね」
「そうなのかな……」
「そうでしょ……」
 そうだそうだ。実家の都合だかなんだか知らないけど、いきなり遠くに離れていったのはハラッポじゃないか。

「あ、そうだ」
 ハラッポは急にセーターの裾をめくると、レーコさんのこぶしぐらいの大きさの柚子をひとつ取り出した。
「管理人のおばちゃんにもらったんだ。器量は悪いけど柚湯にしたら? ってさ。これ、レーコさんにあげる」
 テーブルの真ん中に、器量悪しのレッテルを貼られた可哀想な柚子が置かれた。レーコさんはそれを両手で取りあげて頬を近づける。
「いい香りだね……。それに、あったかい」
「ポケットに入らなくて、ずっとお腹に抱いていたからね。お風呂に入れてあったまるといいよ……」
 でもレーコさんは柚子をテーブルに戻した。
「わたしはいいよ。ちゃんと持って帰って、原君が家で柚湯にしたらいい」
「おれはいいんだよ」
「いいんだよじゃないよ。キミがもらったんだし」
 そうだそうだ、持って帰れ。持って帰って誰かさんとゆっくりあったまればいいんだ。もっと言ってやれレーコさん。
 でもレーコさんは、箸でかぼちゃをつついただけだった。
 テーブルの真ん中、柚子が困ったように縮こまっている。どうせどうせあたいなんかもらい手がないのよという声が聞こえてきそうだ。

「おばちゃんに柚子を手渡されたとき、これはレーコさんにあげようって思った。最初にそう思ったんだ。だから来た。もちろん、柚子がなくても来たかった。それじゃいけない? レーコさんに暖まってほしい。風邪をひかないでほしい。そういうの、もうだめなのかな」
「ずるいよ」
「なにが?」
「急にそんなやさしいの」
「……」

「ねぇ、どうしてひとつしかないのよ」
 レーコさんはもう一度柚子を両手に包んで、手のひらの中のそれをぎゅっと見つめる。
「だからそれはおばさんがさ……。
 だけど、もらったのがふたつでもみっつでも、おれは全部レーコさんにあげたいよ?」
「でもそれは、柚子だからだよね」
 ハラッポはなにも言えない。
 レーコさんは柚子を見つめたまま、悔しそうに何かを堪えている。言いたいこときっとたくさんあるんだよね。レーコさんの哀しみや悔しさはアタシが一番よく知ってる。でもさ、泣くの? まさかね、そんなのアタシはいやだよ。
 それからふたりは、いつかのようにずっと黙ったままでいる。

 アタシはもう寝ちゃおう。
 
 これからどうなるのか気になるけど、泣いちゃうレーコさんなんか見たくない。次の行動に移るのに時間がかかるに決まっているハラッポも見ていたくないよ。いらいらするからね。
 だからアタシはもう、寝てしまうぞ。

 あーあ。相手が藤野だったらこんな時、「一個しかないんだから一緒に柚子湯に入ろうよ」とか言ってちゃかして、「ばぁーか」ってふたりで笑うんだろうけどな。
 そういうのと、こういうのは、違うんだな……きっと。
 今のレーコさんとハラッポの間は、ぴーんと張りきっちゃってるんだ。もう一度ちゃんと近づいたら、緩みもできて楽になるかもしれないのに。そうじゃなきゃ、チョキンと切っちゃえば楽なのに。だいたいなんでこのふたりは……

 あ、いけない。アタシはもう寝るんだったよ。
 おやすみ。

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