(19)金魚の寿命とハズレ棒
「金魚の寿命って、どのくらいなんだろうな……」
 夢の中の、ぼんやりもやもやした雲の向こうから藤野の声が聞こえてきた。ジュミョウって……寿命? どうしてそんな話をしているんだろう。大好きな藤野の言葉とはいえ、縁起でもない……。
「……いいよ、そんなの。だって……」
 レーコさんの声が切れ切れに聞こえる。アタシの頭の中はまだぼんやりで、意識は水の中を斜め30度にヒランヒランたゆたっている気がする。
 それにしても、藤野はいつレーコさんとこに来たんだろう。アタシが眠っている間? 夕べのうち? それとも今朝になって? そもそも今は何時? アタシ、眠っていたんだっけ?
 なんだかこのごろ、ところどころで記憶が飛んでしまっているみたいなんだ。ふわふわぁ〜っと気持ちよく、いろんなことを忘れる一瞬がある。ひょっとして……年かしら。うんにゃ、しゃきっとしなきゃ。

「俺も金魚を飼っていたことがあったんだぜ」
「ふ〜ん……」
「まだ小学性のころだけど。友達んちの金魚がたくさん卵を産んでさ、そこんちのおばちゃんに小さなバケツいっぱい、卵をもらったんだ。こうやって水草ごと、池からおたまですくってね」
「おたまで?」
「そう。おたまだった。……ん? ……見ろよ、こいつまたちゃんと泳いでるぞ。まだまだ寿命じゃなかったのかな」
「ほんとだ。よかったぁ……」
「さっきまで死にそうだったのはなんだったんだろう」
 死にそうだったぁ? アタシはこの通り元気元気。まったくもう、レディーの前で寿命の話なんかやめてほしいわ。

「そうだ。ねぇ、それでその卵、どうなったの? ちゃんと孵った?」
「ああ、ちゃんと孵ったよ。第一期、第二期ってどんどんね。でも俺さ、ずっと小さいバケツに入れたままだったから、これがまたどんどん死んでっちゃって……。慌てて、母親に水槽を買って貰ったんだ。それでも、最後に残ったのは何匹でもなかったなぁ」
「そうなんだ」
「死んでは埋めて……ってやってたら、庭の隅っこが金魚の霊園みたいになっちゃってさ。そうそう、思い出したよ」
 藤野はちょっと遠い目をして苦笑した。
「そのお墓にさ、墓だぞっていう印に俺、アイスのハズレ棒を差してたんだよね。名無しの墓標。……で、ある日ばーちゃんがさ、あれはなんだい? って聞くから、『死んだ金魚の墓にハズレ棒を差してやった』って言ったんだ。そしたらばぁちゃん、『ハズレとはなんだい! 命にハズレもアタリもあるもんかい!』って。そりゃぁ、ものすごい剣幕で怒りやがんの……」
「なにもハズレ棒って言わなくたってよかったのに……」
「だけどさ、『アタリ』だったら新しいアイスと交換しちゃうんだから、手元に残って墓に使えるのはハズレ棒ばっかりなのは当然だろ?」
「それだって、『アイスの棒』って言えばいいことじゃない」
「あの頃の俺にとって、ハズレ棒はハズレ棒だったんだよ!」
「可愛そうに……」
「誰が? 叱られた俺だろ?」

 アタシは二人の様子を見ながらすいすいと水槽の中を泳ぐ。大丈夫、なんともない。アタシはちょっと気を失っていただけなんだ。寿命なんかじゃない。年でもないぞ。

「ハズレ」の札を立てられて埋葬された金魚たち、ハズレだってなんだって、そうやって藤野に墓を作ってもらった金魚はしあわせだ。アタシがまだ金魚すくい屋の金魚だったころには、毎日たくさんの仲間が死んでいったけど、ただ水からつまみ上げられては、そこらの野っぱらに放り出されてそのままだったんだ。
 その点アタシも、レーコさんにすくってもらえて幸せだ。ついでに、藤野に墓を作って貰うのも悪くない。もちろんまだまだ、元気でいるつもりだけど。

 元気がないのはむしろレーコさんだ。
 アタシのせい?
 今も、いつの間にか藤野のことを忘れたようにぼんやりとして、アタシのことを眺めている。藤野は窓を開けて空を眺めている。あ、なんだ夜だったのか……って今頃気づくアタシもやっぱりどうかしてるけど。
 レーコさんは餌を入れているフイルムケースを開けて、水槽の上に掲げている。そういえばアタシ、お腹が空いてる。
 いつものようにかすかにトトンとレーコさんがケースを指ではじく音がして、餌が落ちてきた。アタシは決してがっつかず、くれるなら食べるけど? くらいの優雅さで餌を口にする。
 するとその時、ベランダの方から声がした。

「レーコさん、月がきれいだよ」

 と、ほとんど同時にぽしゃっ。水面に落ちたフイルムケースから、もあもあと餌が流れて沈んで来た。
「あーあ……」
「どうした?」
「藤野くんがレーコさん……なんて呼ぶから」
「レーコさんじゃいけないの? ねぇ、レーコさん」
「やめてよ。だって、藤野くんはいつもレイちゃんて……」
「だからって、ケースごと餌を落っことしちゃうほど慌てることないだろ? もしかしてもしかして? ……ふーん、そういうことか。ふーん」
「なによ、ひとりで納得して」
「いや、いいよ」

 レーコさんはフイルムケースを網ですくい、もわもわと舞い上がる餌もついでにすくっていく。それでも水槽の中はなんだか息苦しい。どんどんお腹に片づけたら、元のきれいな水に戻るんだろうか。アタシ、過食症になりそう。

「なぁ、コイの寿命って知ってる?」
 ふっと、藤野がまた違う話を始めた。
「んー、金魚よりは長いのかな……」
「え? あぁ、違う違う、恋愛の方の恋の寿命」
「そんなのあるの?」
「あるんだぜ。3年以上4年未満」
「ふーん……」
「あ、わたしには関係ないわ……とか思ってるな?」
「そういうの嫌いだもの。なんとかの法則とか、統計的にはとか生物学的には……って話」
「なるほどね」
 なにが「なるほど」なんだかわかんないけど、アタシも「なるほどね」って思う。
「ああ、ごめん。藤野君が語りたかったら語っても良いよ?」
「冷たいね。こないだうちの研究所でこの話をはじめた時は、女の子たちが『えー?それってどういうことなんですかぁー? 教えてくださいよ藤野しゅにーん!』って大変だったんだぞ?」
「あらそう」
「ちぇ。せっかくの蘊蓄を」
 レーコさんはまるで聞く気がない。聞いてもそれが楽しいことじゃないってことが分かっているんだろう。藤野は諦めきれないのか、椅子に腰掛けて目線をアタシの高さにすると、「よし、それじゃぁ、おまえに聞かせてあげよう」とアタシを指さした。

「恋愛って感情はさ、脳の分泌物質が決めるんだよ。フェニールエチルアミンって知ってるか? 金魚にもあるのかな。そのPEAとか、TRHとかLHRHってホルモンが分泌されて、こう、胸がドキドキときめいたりなんだりするわけだ。でも、それが出続けるのはせいぜい3年なんだな。3年たつと残念だけど、すっかり無くなっちゃうんだぜ。だから三年目の浮気ってのは、ある意味自然の摂理なのさ」
「じゃ、長く続くカップルはどうなってるの?」
 あれ? レーコさん、興味を持った?
「それは三年たつ前に、その恋愛ホルモンが安心とか安定とかのホルモンに変わったんだろな。いつまでもどきどきはしないけど、一緒にいると安心でしあわせってやつさ。They lived happily ever after」
「ふーん……」
「そこで……だ」
 と、藤野はまたアタシに目を当てた。
「俺はおまえの脳から是非とも新しいPEAを分泌させてやりたいと思ってる。でもって、三年以内にしっかり、安定ホルモンに変えたいと思うんだけど、どうだろう」
 ひえー、どうしたんだろ、藤野ってこんなばか……気障なこと言う人だったの? なんだかレーコさんもびっくりしてる。
 うーん、いよいよ新しい展開? アタシの方がわくわくしちゃう。

「それでさ」
 藤野は居住まいを正してレーコさんの顔を見た。
「レイちゃんのこれまでの恋には俺がしっかり墓をつくってやるから。ハズレ棒を立てて……」
 すると、それまでは冗談半分でしょという感じで聞いていたレーコさんが、急に真顔になって、そうして怒ったように言い放った。

「ハズレってなに? 恋にハズレなんかないわよ!」と。

 あーあ。学習が足りないねぇ、藤野君。
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