(21)好きになっちゃいけない人ってあるのかな
 次々に部屋の荷物が運び出される中、アタシも水槽からビニールの袋の中に移された。縁日でレーコさんにすくわれた時に最初に入れられたのと同じ、ピンクの細いビニールコードできゅっと上を絞った巾着型の安っぽいアレの中だ。
 それからアタシはレーコさんの指にひっかけられたまま、小型トラックの助手席に乗せられた。運転席には見たこともないデカイ男がいて、車はぶるらんと走り出し、ラジオからは演歌が流れてきて、ハンドルを握る男の手は毛深くて、その手が時々レーコさんの膝をいやらしく撫でて、そのたんびにトラックはぐいんぐいん揺れて、アタシも水の中でぐらんぐらん揺れて、もう、げろってしまいそうにクラクラで、これからいったいどこにいくんだろう? この男は誰なんだろう? ……って、そのとき、
「ただいまー」という声が聞こえて、パチッと回りが明るくなった。

 レーコさんが藤野と一緒に帰ってきたんだ。
 あぁ、夢でよかった。
 藤野でよかった。
 レーコさんは、稲穂が付いた小さい竹箒みたいなものをアタシの水槽の横に立てかけた。はっきり言って邪魔だけど我慢しちゃう。アタシも大人になったよ。

「すっかり遅くなっちゃったな」
 わぉ、久しぶりに耳にした藤野の声。何かこう、爽やかに草原を吹き抜ける一陣の風のような……って、どうしていい男を見るとアタシは例えが陳腐になるのだろう。とりあえず、目は冴えてきたぞ。

「よかったらこたつに座って」
「いや、レイちゃんとひとつ蒲団に入るのはちょっと……」
「蒲団じゃなくて、ただのこたつでしょ」
 レーコさんがキッチンに立つと、きれい好きな藤野はいつものように洗面所に行って手を洗い、控えめに口をゆすいで、それからこたつじゃなくてダイニングテーブルの前に座った。アタシからだと魅力的なうなじが見える(うなじしか見えない)藤野の定位置だ。
「コーヒーでいい?」
「ああ。インスタントのね」
「どうしてインスタント?」
「レイちゃんがすぐここに戻って来られるから」
「水ならもっと早いよ?」
 レーコさんは笑っていた。
 よかった。楽しそうだ。

「藤野くんのお母さんて、相変わらず若々しいね」
「そうか? 相変わらず化粧が濃い、だろ?」
「うん、いかにも水商売ですって気合いが入ってるよね」
 おや? ってアタシは思った。なんとなく、レーコさんらしくない失礼な言い方っていうか……。でも藤野はおかしそうに肩を揺らす。
「高校んときもレイちゃんはそう言ったよな。スナックのママらしいママだねってさ。 『そんな風に見えない』って言われたがる人も世の中にはいるんだろうけど、おふくろはほら、ああいう人だし、『らしい』って言われて喜んでたっけ」
「そういうとこも、好きだなぁ」
「おふくろもレイちゃんのこと、気に入ってるんだぜ。今夜はありがとな」
「わたしも今日は楽しかった。お酉さまも久しぶりだったし」

 お鳥さま? 焼き鳥でもごちそうになったのかな。

「俺は酉の市に毎年つきあわされてるけど、レイちゃんは人混みで疲れただろう?
 なにも午前零時を期して行かなくたっていいだろうになぁ……」

 そう、時計はもう午前一時を大きく回っているんだ。

「でもほら、こういうのは縁起物ですから。それに、熊手も買ってもらって嬉しかったよ」
 レーコさんがマグカップを藤野の前に置いた。いつ買ったんだろう。今まで見たことないスマートなカップだ。
 カップから湯気が、部屋の中を物珍しげに眺めながら揺れている気がする。  ハラッポが使っていたお揃いのカップは、どこにしまっちゃったんだろうな。

「ねぇ、さっきお母さんと一緒だった方……」
「萩さん?」
 はげさん? 
「前にもお会いしたことあるような気がするんだけど……」
「あるかもしれないよ。おふくろとはもう長い付き合いだから」
「そうなんだ。仲よさそうね、おふたり。その……変な意味じゃなくて」
「幼なじみだしな。実を言うと俺、あの人が自分の本当の親父じゃないかって本気で疑ったことあったんだぜ。父親のことは、小さい頃に死んじゃったから記憶にないし」
「でも……違うでしょ?」
「そうだったらいやだよ。俺も将来あんな頭になっちゃうのかもしれないじゃん」
「まぁ、そういう感じじゃないよね、今のところ」
「だろ?」
 レーコさんは腰を上げて、藤野の頭頂部を覗き込んだ。アタシも後ろから、藤野の頭をしげしげと眺めちゃう。

「頭はともかく、萩さんがいい人だってのは俺にも分かるんだ。でもさ、よりによって、好きになっちゃいけない人に惚れ続けるなんて、おふくろも馬鹿だよな」
「ねぇ……」
「ん?」
「好きになっちゃいけない人って、あるのかな……」
「え?」
 そのとき、電話が鳴りはじめた。

 レーコさんは出ない。
「出ないの? 邪魔なら俺、外に出てようか?」
「いいの」
 そう言っているうちに呼び出し音は止んだ。

 あぁ、きっとハラッポだなってアタシは思った。今朝も電話があったんだ。
 こっちに帰ってるみたいな話だった。それで具合はどうなの? とか、それじゃ仕方ないね、とか、大事にしてあげてね、わたしは大丈夫だよって……、話しているときはいつもの通りだったのに、電話を切ったときのレーコさんが寂しそうだったのをアタシは知ってる。
 このところずっとそんな感じだ。何かあったみたい。
 そうだ、レーコさんが「気分転換に引っ越しでもしよっかな」なんてつぶやいたから、アタシは変な夢を見ちゃったんだよ。

「いたずら電話か何か多いのか?」
「ううん、そんなんじゃない」
「そっか……。ならいいけど、いや、よくないのか……」
 藤野、ぶつぶつ言ってる。
「藤野くん、お腹空かない? なにか温かいものでも……」
「いや、そろそろ帰るよ」
「なんで?」
「なんで? って、こんな時間だし、ひとつお蒲団で寝るわけにもいきませんし」
「大丈夫。全然眠くないし。居てよ」
 大まじめにそう言うレーコさんを見て、藤野はため息をついた。
「なんかあったの?」
「え?」
「突然俺の職場に訪ねて来るのもレイちゃんらしくないし、おふくろとお酉さまの約束があるって言ったら、一緒に行きたいなんて言うのもなんか意外だったし……」
「そうかな」
「そうだよ。
 藤野くん抱いて! なんつっていきなり迫られちゃったらどうしようかなんて、えらく期待させられちゃうくらい、レイちゃんらしくない」
「ふーん」
「ふーんか。
 だいたいさ、なんかあったの? って、俺に言わせちゃうところがまずおかしいんだよ?」
 なんだかレーコさん、藤野に怒られてるみたいだ。
 
「ま、どうせ聞いてもしゃべらないよな……」
 そう言って少し考えてから、藤野はちょっとじじむさく膝の上をさすった。
「冷えてきたな。帰してもらえないならやっぱり、レイちゃんと蒲団に入ろうかな」
「こ、た、つ、でしょ?」

 藤野はさっさとこたつの方へ行って、壁に寄りかかれる場所に座った。それから、向かい側に座ろうとするレーコさんを手招きして、自分の横を示す。
「こっちおいでよ。寄りかかった方が楽だし……」
 レーコさんは何か言いかけて、でも、素直に藤野の隣に座った。
 狭いところに脚の先だけ入れて、ふたりとも壁によりかかって並んで前を見て、目線の先には電源の入っていないテレビ画面があって、テレビの横には赤いデジタルの時計が光っている。
「なんか変だね」
 レーコさんは少し照れくさそうに笑う。でも、藤野はもう真面目な顔だ。

「なぁ、俺といるのは楽?」
「うん」
「苦しいとかせつないとか、全然無いよな?」
「ないよ」
 あーあ、言い切ってるし。
「でも、他の誰かに対してはそうじゃないことがある……んだよな? きっと。
 レイちゃんがレイちゃんらしくなくなったり、電話にも出なかったり……」

 そうなんだよ。どうなってるの、そこんとこ。

「あーあ、あったかくなったら眠くなってきちゃったなぁ……」
 レーコさんは何かを誤魔化すみたいにこたつのテーブルの端っこにうつぶせた。
 どうせなら、藤野の方によりかかればいいのに。
 藤野はそのまま、レーコさんの丸まった背中を眺めている。

「考えてみたらさ、好きになっちゃいけない人って、変な言葉だよな。いや、さっきの、おふくろの話の続きだけど……」

 アタシもそう思うよ。誰かを好きになることが、いけないとかいいとか、変だよ。恨んだり嫌ったりするのは醜いけど、好きは、いいじゃん。
 レーコさんはまだ黙っている。

「好きになろうと思ってなるわけじゃないんだから、好きじゃなくなる日っていうのも、来るときには自然に来るものなのかもな……無理しなくても。いつかそいつよりもっと好きな人ができたり、いつの間にか疎遠になって忘れていったりしてさ」

 もしもそんな日が来なくて、ずっとずっと好きだったら、それはそれですごいよね、アタシ、表彰しちゃうよ。
 レーコさんは聞いているのかいないのか、微動だにしない。藤野、がんばれ。

「だけど、ワケ有りな相手だったら、一度は意識して距離を置いてみるのもいいかもしれないよな。そうしたら改めて見えるものとか、あると思わない?」
 藤野、そっとレーコさんの背中を指先で押してみる。
「たとえばさ、もっと近くに、楽に手に触れられる幸せを見つけたりとか……なぁ、なんだよおい、こたつで寝ると風邪ひくぞ?」
「……お蒲団だもん」
「こ、た、つ、だろ?」
 藤野はしょうがないなって感じで時計を見あげた。
 なんだ、お話止めちゃうの?

「もうこんな時間だもんな。やっぱり俺は帰るよ」
「5分だけ……」
「5分したら帰っていのか?」
「5分だけ寝たら、起きるから……」
 そうしてレーコさん、ホントに静かになっちゃった。まぁ、レーコさんのことだからこのまま寝ちゃうことはないと思うけど。
 それにしても、藤野の前だとどうしてこんなに無防備なんだろう。レーコさんらしいのからしくないのか、アタシには分かんなくなってくるよ。

 藤野は立ち上がると、上着を脱いでレーコさんの背にそっと掛けた。それからそろりそろりとアタシの方へ来た。珍しい。嬉しい! たまには話そうよ!……と思ったら、例の小さな竹箒みたいなのを手にして何か考えている。
 
 「こんな小さい熊手じゃなくってさ……」

 え? なになに? 声が小さいよ。

 「こんなちっぽけな熊手じゃなくて、俺のこの両手でキミを……キミに、幸せをかき集めてあげたいんだ……いや、かき集めてやるよ……かな……」

 あー、だめだめ! 
 藤野はいっつも、大事なところで台詞がクサいんだ。
 それじゃきっと、レーコさんは笑うだけだよ。

 それともただ、
 笑わせたいのかな……。

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