(22)アイツはああ見えても案外ね……
 気がついたら、部屋にレーコさんがいなかった。
 昨日の夜から? 今朝から? 
 今がいつの何時頃なのかも、遮光カーテンが閉まったままでよく分からない。
 とにかくアタシ、お腹が空いた。
 お腹が空いたってことはつまり、長いことレーコさんがいないってことなんだ。

 アタシ、捨てられたんだろうか。

 閉めっぱなしの部屋で、水槽の中もどんよりしている気がする。そのうち電気も止められて、ポンプも停まって、どんどんどんどん、どんよりして、アタシは腹ぺこのまま死んじゃうんだろうか。
 底の砂利の間をさぐっても、食べ残しの餌なんか残ってない。きれい好きが仇になるとはね……ああもう、疲れたよ……。

 ん? なんだろうこの灯り。ついにお迎えが来たのかしら……。

「はぁーい、可愛い妹がわざわざ来てあげましたよー……勝手に上がりますよー」
 パチっと部屋の電気も点いてすっかり明るくなって、近づいて来たのはレーコさんの妹の温子さんだった。空気悪いねぇと、すたすたと窓に寄ってカーテンを開けて窓も開ける。
 外はもう暗い。

「ねぇねぇ、お姉ちゃんどこ行ったの? あんた知ってる?」
 知らない知らない。
「いきなり電話してきてさ、悪いけど二三日帰らないから金魚に餌やっといてって言うのよ、いきなりだよ? ご近所じゃないんだからさぁ、勘弁して欲しいわよ」
 ぶつぶついいながら冷蔵庫を開けた。
「相変わらずトマトジュースしかないんだね……。あ、ヨーグルト。賞味期限が来ちゃうといけないから食べて上げよう」
 どっかりと椅子に腰を下ろして、温子さんはヨーグルトを食べ始めた。レーコさんの好きなアロエヨーグルトだ。
 そのうち派手なロックが聞こえた。携帯の着メロらしい。
「はい。うん、今? お姉ちゃんち。ううん、留守番。わかんないんだ。今朝電話があってさ、しばらく留守するからって。今日? どうしようかな、ここに泊まっちゃおうかな。でもきっと、お姉ちゃん嫌がると思うんだよね……うん、え? これから? いいよ、じゃ、終わったら電話してね」
 温子さんは電話をしまうと、ああそうだ、ゴミも出してくれって言われたんだと、食べ終わったヨーグルトのパックも一緒に袋に詰めて、ゴミ出しに行った。

 結構頼りになるんじゃん。

 それにしてもレーコさん、どこに行ったんだろう。ひとことくらい言ってってくれてもいいのに。
 最後に見たときのレーコさんがどんなだったか、アタシは思い出せない。
 何を着ていたっけ、どんな格好だったっけ。
 楽しそうだった? 哀しそうだった?
 だめだ。思い出せない。 アタシもう、やっぱり年なのかもしれない。

 戻ってきた温子さんはテレビをつけて、ぼんやりとニュース番組を見ている。
 恋人の……ケータだっけ……が、迎えに来るのを待っているらしい。
 アッちゃんケーちゃんコンビは喧しいだけだから、来たらさっさと帰って欲しいな。

 でも、とにかくその前に、早く……

 チャイムが聞えた。
 温子さんはテレビを消して、へ? という顔で玄関を振り返る。
 もう一度チャイムが鳴って、温子さんは立ち上がった。
 レーコさんが帰って来たんならいいのにな……
 だったらよかったのに……

「おー、アッちゃん、留守番だって? えらいなぁ」
「偉いなぁって、子供じゃないんですから。それより八木さん、どうしてここに?」
 うわ、ヤギヤギだよー。
 アタシが縁日でレーコさんに掬われたときに一緒だったオトコ。ケータと一緒にバンドやってるけど、年はたぶんレーコさんよりもいくつか上のオトコ。
「うん、いや、さっきケータに聞いてさ。俺もここで奴と待ち合わせ」
「いいのかなぁ……勝手に待ち合わせ場所にしちゃって。お姉ちゃんに叱られそう」
「黙ってれば大丈夫だよ、金魚はしゃべれないんだし。なぁ」
 と、持って来たギターケースをアタシの前に立てかける。
 うぅーー……。しゃべれるならまず、オマエは嫌いだと言ってやるのに!

「レーコのやつ、旅行?」
「たぶん……」
「男?」
「えーっ? 知らないですよ」
「まぁ、いいけど」
 八木はタバコをくわえたままキョロキョロした。それから勝手に食器棚の下の戸棚を開ける。
「あれ? ないな、灰皿」
「わ、勝手に開けないでくださいよ」
 そうだそうだ!
「俺が居たときにはいつもここにあったのになぁ……」
「なぁーにおセンチになってるんですか。
 タバコは我慢してくださいよ。八木さんを留守の部屋に入れたって知られたらわたし、お姉ちゃんに殺されちゃうかも」
「ひでぇーなぁ……。んじゃあ、なんかないの?」
 わー、今度は勝手に冷蔵庫を開けてる。
「相変わらずトマトジュースか……。ヨーグルトはないんだな」
「トマトジュースでよければ飲んでいいですよ。わたしが飲んだことにするし」
「や……遠慮しとく」
 嫌いなんだな、きっと。

 ヤギヤギは手持ち無沙汰なのか、ギターケースを開けるとギターを磨きだした。
 ケースはぼろぼろだけれど、真っ黒なギターはぴかぴかだった。ふむ、ギターを抱えていると結構サマになるんだな。
「んで、いつ帰って来るって?」
「それがよくわかんないんですよ。急に電話があって、しばらく……ってだけで」
「会社はどうしてんだよ。社内旅行?……じゃ、ないよなぁ、今時」
「やっぱり恋人……なのかな……」
 恋人?
「愛の逃避行だったりしてな」
「わ、八木さん、よくそんな演歌みたいな言葉が出てきますね。
 でも、あのお姉ちゃんがそんな思い切ったことするとは思えないな。なーんか冷めてるもん」
「いや、アイツはああ見えても案外ね……危ないとこあんだぜ」
 そ、そ、そうなの?
 布に撫でられてギターの弦がきゅっと鳴る。
 ふん、ヤギヤギがレーコさんの何を知ってるっていうんだ?

「アッちゃんはさ、いや、みんなそうだろうけど、俺がレーコに言い寄って言い寄って、やっと振り向かせることができたって、そう思ってただろ?」
「そりゃ、だって……八木さんは全然、お姉ちゃんのタイプには思えないし……いや、悪い意味じゃないんですけど」
 ヤギヤギに睨まれて温子さんは首をすくめて笑った。
 でもアタシもほんと、そう思うよ。全然似合わないし。なんでレーコさんはコイツとつきあっていたんだろう。
「レーコにはさ、他に好きな奴がいたんだよな。村岡って名前、聞いたことない?」
 な、なんだ? 知らない名前だ。
「聞いたことあるような……。会社の人じゃないですか?」
「ん……いや、ごめん、そいつのことは俺が言う事じゃないからあれだな……
 とにかく、どんなにアプローチしても俺になんか見向きもしないでしゃんと立っていたレーコが、村岡との関係が緊張して、危ういところに行って不安定になったら、いきなり側にいた俺の腕を掴んだわけ。で、突然しがみつかれた俺は、わけわかんないままレーコと一緒に穴に落っこっちまった。
 俺に言わせれば、始まりはそういうことなんだ」
 んー……分かるような分からないような……。

「つまりあれですか? 誘ったのはお姉ちゃんの方だった……ってことですか?」
「いやぁー、さすがの俺もそこまで自惚れちゃいないけど……」
 どうだかぁー……
「俺が言いたいのは、レーコは愛の逃避行だってなんだってしかねないってことだよ。変にきまじめなくせに、ぷつんと妙な方向に嵌めを外すんだ。すぐにまた、正気に戻るくせにさ……」
「正気に返ったおねえちゃんに、結局はまた振られちゃったってわけですね」
「うるせー。
 アイツが可哀想になったから、こっちから離れてやったんだよ。
 冷めたくせに、無理してがんばろうとするから……」
「でも、八木さんと付き合ってた頃のお姉ちゃん、結構楽しそうでしたよ」
「ちぇ、慰めるんじゃねぇよ」

 その時また温子さんの携帯が鳴った。
「ケータ、すぐそこまで来てますって」
「んじゃ、出かけるか」
 ヤギヤギはギターをしまい始めた。
「戸締まりするから八木さん、先に出てくれますか?」
「おぅ」
 ヤギヤギが出ていくと、温子さんは窓の鍵を確認してカーテンを閉めた。
「ほんとに、誰とどこ行っちゃってるんだろ」
 外を見たまま手を止めて、ちょっと心配そうな温子さん。
 アイツは案外危ないんだ……なんて話、アタシも聞きたくなかったよ。

「ま、いいか」
 温子さんがぱちんと電気を消して、部屋はまた暗くなった。
 玄関のドアも閉まる。

 あれ? あれれ?

 お、お、おーーーい。
 冗談じゃないですよぅー。

「わぁー、ごめんごめん!」
 慌てて戻ってきた温子さん、やっとアタシにゴハンをくれた。

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