(24)そんな藤野ならアタシは見たくない
「どうしたの?」と、玄関を開けるなりレーコさんが小さな声で驚いて、
「カッコイイだろ?」と、くぐもった藤野の声がした。
「どうしたのよいったい」と、少しだけ笑いが含まれた声で言いながらレーコさんは部屋に戻り、ティッシュの箱を持ってまた玄関にいく。

 どうしたのどうしたの? 上がっておいでよ、藤野。アタシのところからじゃ死角なんだよそっちは。

「痛いの?」
「いや」
「鼻血はそんなに出てないみたいだから大丈夫よ。顔、洗ったら?」
「いいよ、このままで」

「どこかで打ったの? 腫れてるみたいだけど……」
「殴られた」
「……誰に?」
「女の子」
「ふーん……」
 またレーコさんが戻ってきた。タオルを水で濡らして持って行こうとして、途中で自分の頬に当ててみてからまた戻ってきて、冷凍庫の中の保冷材も持っていった。

「汚れるからいいよ」
「いいよ。どうせ雑巾みたいなもんだし」
「ちぇ、どうせ……」

 いつものように部屋に上がってこない藤野と、「上がったら?」とも言わずにいるレーコさん。どうしたんだろう。なんとなくアタシは不安になる。
 でも、上がったら? なんて、言えないのかもしれない。だって夜だし、何か、いつもと違って最初からちぐはぐで……。

「本当に殴られたの?」
「ああ」
「誰に?」
「だから女の子。おふくろのスナックの、バイトの子」
「なんで?」
「馬鹿じゃん? て言われてさ」
「なんかしたの?」
「しなかったから」
「ふーん」

 沈黙。

「嘘だよ」
「え?」
「ちょっとぶつけただけ。酔ってるし暗いからエントランスの前でこけてさ。嘘だと思うなら見てきたら? AB型の血痕がついてると思うし」

 なんか変だよ、藤野。
 ねぇねぇ、アタシに顔を見せてよ。

 レーコさんが黙っていると、しばらくして大きなため息が聞えた。

「最初はさ、うんと年下の女の子に甘えられる感じってどんなだったっけって、そう思ってアイツに興味を持ったんだ……。
 餌やって散歩連れてって、俺だけ見てしっぽを振るペットを可愛がるみたいにさ、ただ可愛がりたかったんだよな。髪の毛くしゃくしゃってして、オマエってブサイクだよなぁ、なんて平気で言いながら、でも鼻なんか丸くて可愛いよ、俺は好きだよなんて軽々しく言って、二十歳の女の子相手に何やってんだか俺は……」

 藤野にそんなこと言われたら嬉しいだろな。たぶん、アタシなら。

「そのうえ、殴られるようなことしたのね」
「そうらしい」
「つきあう動機が不純なんだよ。いくら可愛くたってそんな……」
「レイちゃんもそのつんけんした態度が可愛いよ……って、いてぇーなぁ、こめかみ小突くなよ。オマエなんかそんな風に可愛がられたことないだろうから言ってやってんのに」
 あーっ! 「オマエ」っつった! 藤野がレーコさんのことオマエって、今まで言ったことあったっけ?

「オマエはさ、甘えていいよとか言われたら、余計に意地張るだろ? そもそも俺なんかに甘えたかないかもしれないけどさ、それじゃ友だち甲斐もないっつーかなんつーか……」
「待って。タオル、ゆすいでくるから」
「そうやっていっつも、どこか姉さんぶっててさ……髪の毛くしゃくしゃになんかしたら本気で怒りそうだし。藤野くんはこんな人って決め付けて、今だって心配してる振りして呆れてるんだ、俺のこと」
 流れる水の下でレーコさんの手が止まった。
 何でそんなこと言うの? 決めつけてるのはそっちも同じじゃない。
 口に出せないそんなレーコさんの声がアタシには聞こえる気がする。

「俺だけを頼って甘えてくれる子はやっぱり可愛いよ。アイツすげー可愛かった。でもオマエは全然可愛くなくて、可愛くないのに、可愛くて、俺、……やっぱりアイツじゃ駄目で、そしたら、馬鹿じゃん? って、グーで思いっ切り殴られてさ、そんでも平然とした顔で歩いてきたのに、鼻血でちゃってるし、血ぃ止まんなくて、なんか焦っちゃって、そしたらレイちゃんちの近くにいて、こんな夜中に、こんな顔で……ほんとに俺、馬鹿じゃん」

 ああもう、何を言ってるのか何が言いたいのかわかんない!

「なにか、わたしに怒ってるの?」
「ごめん……」
「なんか分かんないけど、格好悪いよ、藤野くん」

 そうだよそうだよ、格好悪いよ。

「そんなの、高校の頃から知ってるだろ? 俺が格好悪いとこ見せてるんだからオマエも格好悪いとこちゃんと見せろよな。もっと、なんつーか、もっとだよ!」
「ほら、興奮すると血が止まらないよ」

 していることや声は優しそうだけど、レーコさんは優しいんじゃないのかもしれない。
 怒っているのでもなく呆れているのでもなく、しんと静かに冷めた感じが、アタシには伝わってくる。アタシも一緒に冷めてくる。

「レイちゃん、俺、殴られた。ちくしょー」
「悔しいのはよくわかるよ。怖いよね、最近の若い子は」
「若い子じゃない。入り口のドアだ」

 まるで子供みたいだ。そして、そう思ってもらいたいのだとしたら正にサイテーだ。
 そんなに恥ずかしいなら、今からでもきっぱり立ち上がって出て行けばいいのに。ずるいよ藤野。酔っぱらってるなんて言い訳にならない。

 そんな藤野の顔ならアタシ、見えなくていいや。


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