(25)金魚すくいの金魚だった頃のように
 レーコさんがカーテンを開けて外を、高いところを眺めている。

 そう言えばアタシは空を見なくなった。
 レーコさんのところで暮らすようになってから、空が見えなくなった。
 少しだけ見える窓の外や部屋の明るさやレーコさんの様子でお天気は何となく分かるけど、空は欠片も見えない。

 ぴかっと稲光がして一瞬、室内が明るくなった。
 背びれにぴくっとひとつ震えが走った。
 ああ、もうすぐ雨が降ってくる。
 アタシは少しわくわくする。金魚すくいの金魚だった頃のように……

 あの頃は、追いかけてくる人の手の揺らぎで、雨のはじまりがわかったりした。その前に曇ってきた空に気づくこともあったけれど、大抵はパラソルと人の頭が邪魔をして空は狭かったし、ゆっくりと空を見上げている余裕もなかった。
 水面にひとつふたつ、はっきりと雨粒が落ちてくると、それは見る間に数を増やして波紋も何もかも一緒になって波立ってきた。
 ひとりふたりと金魚すくいを諦めて人がいなくなり、はねを上げながらいくつもの足がすぐそばを駆け抜けた。
 濡れた砂利がこすれる音、下駄の音、ビーチサンダルがピチパチ……。

 しまいには金魚すくい屋のおっちゃんも、小さなビーチパラソルの下じゃ雨をしのげなくなってどこかのテントの下に避難してしまうから、アタシたちはただその場に取り残されて、雨粒の下でゆったりとただの金魚でいた。
 アルマイトの小さな器がふたつみっつ、ぷかぷかと浮かんで雨粒を受けて揺れている、その底を追いかけてみたり、できるだけ水面にいて雨粒を直接感じてみようとしたり、動かずにいたり、青くはないけれど広くなった空を眺めてみたり……。

 時々稲光がして、ものすごい音がする。その音がする間は安心だった。
 いつまでもいつまでも、降っていればいいと思った。
 誰もアタシたちを追いかけない。このまま、ずっとこのまま雨が降っていればと……。
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「降ってきたよ」と、レーコさんがつぶやいた。
 降ってきたよの前には、「やっと」も「とうとう」も「やっぱり」も着かない。ただの「降ってきたよ」
 それ、アタシに言ったんだよね?
 雲が出て雷が鳴って、ざぁーっと雨が降ってくる、正しい夏の夕立。
 時々の稲光に照らされながら、怖がるでもなく憂鬱そうでもなく窓の前に立ち、どんどん強くなる雨を、レーコさんはずっと見ていた。
 途中で電話が鳴って、「大丈夫だよ」とレーコさんは答えた。その間もずっと外を見ていた。
「どこにいるの? それじゃ大変だね」と、たいして大変だとも思っていないような口調で言った。時々目を閉じて胸だけで大きく息をして、声だけはほがらかに、「うん、元気だよ」「それじゃまたね」と、言ってからもいつまでも、電話を耳に当てていた。
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 金魚すくいの金魚だったアタシ。
 ずっと雨が降っていればいいのに、そう思ったけれど、そうならないことはちゃんと分かっていた。
 いつか止んでしまう。そうしないと世の中の全てが困る。アタシ以外の全てが困ってしまう。
 稲光も間があくようになって、雷鳴も遠のいて、水面を打つ雨粒の数も少しずつ減って、あたりが明るくなってくると、水の外には活気が戻ってきた。おずおずと蝉の声が聞こえ始め、雲が割れて青空が見えそうになってくる。
 そうしたらアタシはまた、逃げ回らなければならなかった。
 逃げなくても良かったけれど、流れに乗らないと傷だらけになったんだ。
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 気がつくと、雷の音が遠くなっていた。
「ずっと降っていればいいのにな……」
 窓を開けてレーコさんは言った。弱くなってきた雨を呼び戻そうと、雨の尻尾を探しているみたいだった。
 ずっと降っていたら困るし、ずっと降っていることはあり得ない。だから言えるのかもしれない。「ずっと降っていればいいのに」と。

 もう逃げ回らなくていいアタシにとってもまだ、雨は休息だ。
 そこに空があって、雲がやってきて、時にはちゃんと雨も降る。そんな確認。
 小さな休息、小さなわくわく、小さな震え。
 安定を得た代わりに遠くなった、惜しくはないけれど懐かしいものを思い出すアタシの時間。

 濡れた手すりを指でなぞって、レーコさんは薬指からゆっくりしたたり落ちようとする滴を眺めていた。
 ぽたりとそれはまた手すりの上に丸まって、明るくなりかけた空を映していただろう。
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