(29)おはようの代わりにさよならを唱える
 部屋の中にはまだ、お好み焼きの匂いがこもっている。ソースのこげた匂いに、アタシは縁日を思い出してなんだかそわそわしてしまう。世界一落ち着かない匂いだ。

「なぁ、レーコ、俺が買い出しに行ってた時、早苗ちゃんと何を話した?」
 一服したら帰るよと言って、換気扇の下でタバコを吸い始めたヤギヤギの声が、キッチンの方から聞こえる。
 今日は、ヤギヤギが早苗さんを連れて遊びに来ていたんだ。早苗さんというのは、ヤギヤギが前にジグソーパズルしながら話していた、お総菜屋のお姉さんのこと。お姉さんというより、姐さんて感じ。

 レーコさんは今日より前にどこかで既に紹介されていたみたいだったけど、アタシは初対面だ。背が高くて、少し色が黒くて、眉毛も太くて、髪の毛も真っ黒で、額をびゅっと出すように前髪を結っていて、美人とはちょっと言いにくいけど、やさしそうで強そうな姐さんだった。早苗さんの隣りにいると、あのヤギヤギが大人しそうに見えるからおかしかった。

「なぁ、なにを話したんだよ」
「なにって……うーん、ヤギベェはソースでもマヨネーズでも、かけすぎるからすぐに使いきっちゃって不経済だ、とか」
 それからレーコさんはぷっとふきだして、
「早苗さんのヤギの鳴きまね、聞いたことある?」
「あるよ」
「メェ〜じゃないんだよね」
「そうそう。かわいくメェ〜って言うのかと思うといきなりベェーって、リアルすぎて引いたよ」
「でも、そっくりだからおかしかった。ヤギべぇーーーーって」
「レーコがやるなよ。百年の恋も冷めるから」
「もう冷めてるくせにぃ」
「べえーーーぇ」

 ふーん、ヤギってそういう風に鳴くんだ。ふーん。鳴けるっていいね。
 それはともかく、山芋を忘れたって気づいたヤギヤギが買い物に出かけた少しの間のこと。早苗さんとレーコさんは他にすることもなくて、ふたりでアタシを眺めながら話しをしていたんだ。そういうとき、アタシの存在って便利だよね。適当に動いてあげるから眺めがいもあるし、話しのタネにもなるし……

「この金魚、ヤギベェが捕まえたんだって?」
「そうじゃないんですけど、一旦思い込んだらいくら訂正してもそうだって言うんですよ。金魚すくいの何が自慢なんだか……あ、悪口言ってごめんなさい」
 アタシをすくったのはレーコさんなんだってこと、証言してあげたいよ、まったく。
「ヤギベェはさ、自分がこの金魚をレーコちゃんにプレゼントしたんだって、思っていたいだけなんじゃないかな」
「早苗さんはやさしいですね」
「やさしいのはヤギベェだよ。分かりにくい人だけど」
 だよね。ホントいうとアタシも、ヤギヤギはやさしい奴だってうすうす感じていたよ。分かりにくいのに分かるアタシってすごいな。

「じゃぁ、どうして八木さんじゃ、ダメなんですか?」
 ダメって、なんの話しだろう。
「それは、ヤギベェがどうこうじゃなくて、私自身がもう、恋とかナンだとかは遠慮したいなぁーってね、思ってるからなのよ。男と女って、そういう関係じゃない方がずっと楽しいことだって、あるじゃない?」
「そう……ですね……」
「恋なんかじゃないから、今日もこうやってレーコちゃんと三人で楽しいの。そうじゃなかったら、あなたに嫉妬したりしてたかもしれない。そういうぐじゃっとした感情はもう、こりごりだな」
 あれ? それじゃ、この早苗さんのあっさりした雰囲気は、性格じゃなくて、努力からなのかな。
「でも、だから恋はしないなんて、自分でコントロールできるものですか?」
 そうそう。そんな器用なこと、金魚にだって無理なのに。
「できないよ」
 なんだ、やっぱりできないのか。
「つまりあれよ、ヤギベェはそれほどの対象じゃないってことかな。なんて言っちゃ身も蓋もないけど」

 それでも、恋だと思おうとすれば思い込めてしまうものだから、意識してそれをしないことにしてるんだって、姐さんは続けた。基本的には気持ちのいいものだから、浸りたいものなのよね、恋って。決してずっと気持ちいいばっかりじゃないのに……。
「とにかくさ、そうとは気づかないうちに落ちちゃったんなら仕方ないけど、自主的に恋愛なんかしたくない。私は出来る限り避けたいんだ」
「でも、八木さんは……?」
 そうだよ、ヤギヤギは早苗さんを好きだって言ってなかったっけ。
「彼も、一時の思い込みだったって気づいてるよ。だからこうやって私たち、結構いい関係でいられるんだ。セックスするから恋人ってこともないでしょ」
 うげげ。なんか今アタシ、すごいこと聞いちゃったような……。でもレーコさんは得意の聞こえない振りを決め込んで、
「やっぱり、太一君のお父さんが一番なんですか?」
 そうそう、早苗さんにはなんと、太一っていう4歳の子供がいるんだよ。
「やぁだ。そんなきれいな話しじゃないわよ。死んじゃった人と比べたってしょうがないでしょ。まぁ、一番と言えば、太一が一番かしらね。うん、単純に、子供はいいわよー」
 そうかー子供はいいもんなのか……。

「レーコちゃんは、失恋したんだって?」
 おわっ、単刀直入だよ、早苗姐さん。
「失恋? なんだか失恋て言葉、久しぶりに聞いた感じ」
「そういえば、別れたとか駄目になったとか、ある程度つきあった後って、そんな風にしか言わないかもね」
 だよね。なんか、そうだよね。

「私、失恋ならまだ、してないような気がします」
「そうなの? じゃぁ失恋も、ヤギベェの思い込みなのかな」
「だって、まだ、ここにちゃんとありますから……」
 そう言ってレーコさんは自分の胸に手の平をあてて、ほんの少し微笑んだ。
「いいね、そういうの」
「いいのかどうかは……」
「あのね、いいこと教えたげる。もしもだけど、もしも辛くなって、その恋を本当に捨てたくなった時には、毎朝さよならを言うといいよ。
 目が覚めたら、おはようの代わりにさよならを言うの。胸の中に居続けてる人に向かって、さよならを唱えて一日を始めてごらん。そしたらだんだんと、ちゃんと、恋を失えるよ。これ、経験談」
「捨てたくなったら、ですよね」
「そう、捨てたくなったら、だけどね」

 その時、ヤギヤギが帰って来て、早苗姐さんとレーコさんの話しはそこまで。
 姐さんは山芋をがしがしとおろしてタタタッとキャベツを刻み、レーコさんがホットプレートをどこかから出して来て、ヤギヤギがせっせと焼いて、姐さんが一番飲んで食べた。そうして早苗さんは、おばあちゃんに預けた太一を迎えに行くって言って、ひとりでさっさと帰ったんだ。

「……で、ケチャップとソースのほかには何を話した? 早苗ちゃんと」
 あれ? ソースとマヨネーズじゃなかったっけ?
「っていうか八木さん、何を知りたいの?」
「いやべつに、何ってこともないけど。余計なことを言われてないかなぁーって気になってさ」
「私に? それとも早苗さんに?」
「両方」
「残念ながら、あなたのことはあまり話してないよ」
「なんだ、そうか」
「うん」
 うん、セックスしたって恋人ってわけじゃないとか、聞いてないよ、うん。

 バシュっと換気扇のしまる音がした。タバコを胸ポケットに押し込むと、頭をがしがし掻きながらヤギヤギはキッチンから戻ってくる。レーコさんはホットプレートをきれいにして箱に戻し終えたところで、ヤギヤギはそれをひょいと持ち上げると冷蔵庫の上に乗っけた。そうか、そんなところに置いてあったのか。

「また焼こうな。せっかくホットプレート買ってあったんだし」
「もらったんだよ、いつだったか福引きで当たって」
「そうだったっけ? ふたりで買ったんじゃなかったっけ」
 ほらほら、また思い込みだよ。

「んじゃ、俺も帰ろうかな。それとも朝までいてやろうか?」
「いえいえ、どうぞお帰りくださいませ」
「なんだよ、たまには誰かと寝たくないの?」
「べつにぃ」
「おまえ、枯れちゃうの早くね?」
「まだ枯れてないよ。毎朝ちゃんと、おはようだし」
「なにそれ。モーニングコール?」
 まぁ、いいや、わけわかんないけど、レーコが元気そうだからいいやと笑いながら、ヤギヤギは帰って行った。

 あぁ、それにしてもこのソースの匂いは鬱陶しい。もう一度換気扇を回してよ、レーコさん。……ねぇ、レーコさん。
 ほら、ひとりになったとたんにそんな寂しそうな顔をしてる。だからアタシは、そろそろおはようの代わりにさよならを唱えてみてもいいんじゃないのと言いたい。ああ、言いたい。
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