(3)ぱくぱくとよく動く口
ひらひらと頼りなく薄いカーディガンを羽織ったレーコさんが、こちらに背中を向けてキッチンを磨いている。
水槽の中から見るとその裾の揺らめき加減は金魚の尾ひれみたい……って、金魚のアタシがいうのもおかしいけれど。
今日はお客さんが来るのかもしれない。
部屋の中を点検するように見回すレーコさんの目がピリピリしているから、きっとそのお客は女なんだろうな。
ほら、来た来た。
ナホコさんと、ナホコさんが「わたしの親友」って呼んでいるマリさん。マリさんが「親友」ならレーコさんはなに友?
でもみんな、「会社の人」なのは同じらしい。
アタシにわかるのはそれだけ。
「それでさ、それからどうなったわけ?」
ナホコさんとマリさんのふたりは、部屋に入って来てレーコさんと挨拶をかわしたり、どことかのケーキを渡したりしたあとですぐに、そんな会話をはじめた。ここに来る道中、ふたりでずっと盛り上がっていた話の続きなんだろう。
「それがさぁ、急に雨が降ってきちゃったからもう、彼にも無理でね……ほら、いつもそうじゃない?」と、マリさんがナホコさんに返す。レーコさんは黙々とコーヒーを淹れている。
こういうとき、「ねぇねぇ、なんの話?」なんて、レーコさんは絶対に口を挟まない。訊いてくれたらアタシにも様子が分かって面白いのになって思うんだけど、レーコさんは黙ったまま、その話に参加していいのかどうかを伺っている。
「ねぇねぇ、レーコ聞いてよ、この人ったらね……」
しばらくして、やっとナホコさんがレーコさんにも分かるように、説明を始めた。
マリさんの彼がこんなこと言って、マリさんの彼がこんなことして、マリさんの彼ったらこうで、ああで……。
そんな話の、なにが面白いんだろう。
「へー、そうなんだー……。あ、ミルク入れるんだっけ?」と、レーコさんはまた立ってキッチンへ行く。
アタシは水槽の中から、パクパクと良く動くナホコさんとマリさんの口を眺めていた。ナホコさんが6、マリさんが3、レーコさんが1の割合でパクパク。
顔は微笑んでいるけれど、時々ちょっと寂しそうな、時にはむっとしているような微弱電波を発しながら、どんどんレーコさんの口数は少なくなる。
「それにしても、レーコの方から部屋に招待してくれるなんて珍しいじゃない?」
「そうかなぁ」
そうだそうだ。
だいたいこの頃のレーコさんは週末に出かけることが減った。その代わり「会社」からの帰りは遅い日が増えた。
そういう日、アタシはおなかが空くんだ。ペッコペコに。
「ところでレーコさんは、彼氏さんとかいないんですか?」
何度目かにキッチンに立って背中を向けているレーコさんに、マリさんが控えめに声をかけた。
レーコさんの手が、ちょっとだけ止まった。
「あーだめだめ。レーコは秘密主義なんだから。なに訊いたってムダよ」と、ナホコさん。
「えー? そうなんですかぁ?」と、ナホコさんの「親友」のマリさん。
「だいたいこの人は、他人の恋愛にも興味ないしね」
なんだかナホコさん、トゲのある言い方だなぁ。
レーコさん風に言うならばそれは、「興味がないのではなくて、無責任に首を突っ込もうとしないだけ」なのに。
ナホコさんは延々としゃべるだけしゃべって、食べて、食器を流しに運んで、「洗おうっか?」と形だけ言って、これからデートだというマリさんと一緒に帰っていった。「また来るね〜」と。
レーコさんはだから今、流しに向かってひとりで食器を洗ってる。
アタシは心で話し掛けてみる。
-- ホントはレーコさんも何か、話したいことがあったんじゃないの?
でも、ナホコさんたちの話を聞いているうちに、話す気がなくなったんだろうね。
片付けが終わってから、レーコさんはメールを打ち始めた。きっと「残業」の打ち合わせだ。「残業」ってなに? おいしいの?
レーコさんには、「残業だったの」とアタシに言い訳する種類の何かが増えている。あんまり「いい感じ」じゃない。何かを探し疲れているみたい。
まぁ、外で何をしていようがアタシにとってはどうでもいいけどね。とりあえず、「残業」のある日は朝のご飯を多めにおねがい。
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