(32) 白く小さく畳まれて
 暗闇の中でぼんやりしていたら、かちゃりと鍵の回る音がした。
「あ、レイちゃん待って、塩、塩……」と、ガサガサする音と声が聞こえて、アタシの背びれがピピンと立つ。その声は藤野? 藤野だよね。
 電気が点いて、黒い服を着たレーコさんと藤野が見えた。黒、かっこいい。
 アタシ、むかしの仲間の中にいた黒出目金を思い出した。同じビニールプールで逃げ回って三日で死んじゃった黒出目金。かっこよかったのにな。

「大勢、お焼香に来てたな」
「うん、わたしくらいの年齢の女の人もたくさんいたし、あれなら、大丈夫かもしれないね」
 ね、なにがなにが?
「あれみんな、萩さんが女子大の講師をしていた頃の生徒なのかな…」
 萩さん? 誰だっけ。アタシも忘れっぽくなったね。
「でも、とりあえずわたしも教え子だったってことにしておいた方がいいよね。別に、誰にも何も訊かれないだろうけど」
「悪いな、嘘つかせて、明日は仕事まで休ませて」
「大丈夫よ。午前中だけだし、会社にも恩師の告別式って言ったし。ごめん、着替えてきていいかな」
「うん、ああ、俺も洗面所借りる」

 藤野は上着を椅子にかけてシャツの腕をまくると、手を洗いに行った。懐かしい藤野の丁寧な手洗い風景。洗い終わった後で傍らに掛かっていたタオルを見やり、結局ズボンのポケットから白いハンカチを出して手を拭いた。そのすぐ後に、
「タオル、その棚の上の新しいの使ってね」というレーコさんの声が飛んで来て、藤野はもう一度手を洗って、ついでに顔も洗ってそのタオルで押さえた。普段着になって戻って来たレーコさんが、そんな藤野をちらと見る。藤野がそこにいるのが不思議……という感じの顔。そういや、ここに来るのも久しぶりだもんね。

 藤野は椅子のところに戻ると上着の胸ポケットを探って、「忘れないうちに渡しておくね」と、小さな白くて薄い包みをテーブルに置いた。
「今日、チャンスがあったら俺がやったんだけど……」
「明日ならきっと、最後のお別れにってみんなでご遺体の周りにお花を入れるでしょ。その時に近づいて、うまくお花と一緒にお棺に入れるよ」
「悪いな、そんなことさせて」
 今日の藤野は「悪いな」が多いな。
「いいって。藤野君のお母さんの思いを叶えてあげたいもの。萩さんが亡くなってしまって、そのご葬儀にも出られなくて、お母さんきっと、つらいと思う。せめてこれだけでも……って気持ち、分かるよ」
 そうか……。藤野のお母さんの幼なじみで恋人だったらしい萩さん、入院していたけど亡くなっちゃったんだね。それで今日はふたりとも黒なんだ。

「他の人が聞いたらきっと、そんなのご家族に悪いとか気持ち悪いって言うだろうな……」
「そう……かもしれないね」
「でも、レイちゃんはおふくろの味方なんだね」
 そう言ってちょっと複雑な表情の藤野は、テーブルの上にあった鉛筆を持つと、テーブルにぐるぐる円を描いたり、コップの上で振ったりして、
「なんかこんな、まじないみたいなことしてたよな、あの坊さん。宗派によっていろいろなんだな」
 と言いながら、四角い包みの上にも円を描いた。
「これ、預かったこの包み、何が入っているんだと思う?」
「お母さん、教えてくれなかったんでしょ?」
「ああ」

 自分が葬儀に参列して、萩さんのご家族に嫌な思いをさせるわけにはいかない。けれど、せめて、これだけは萩さんと一緒に旅立たせたい、一緒に灰にして欲しいと、藤野のお母さんが頭を下げて藤野に託した小さな包み。
「500円玉かな」
「燃え尽きるものじゃなきゃ、だめでしょ」
「おふくろの髪の毛とか?」
 うーん、それはなんか、あれだな。
「ねぇ、なんだっていいじゃない。それに、何かが包んであるとは限らないよ。手紙かもしれない」
「あ、そうか」
 アタシだったら、旅立ちには食べられるものを持たせてほしいけどな。

「レイちゃんなら、なんて書く? ありがとう? さようなら?」
 お元気で……は、変だよね。
「わたしだったら、……名前かな」
「自分の?」
「そう。レイコって書いて、小さくたたんで……」
 そう言うとレーコさん、しばらく黙ってしまった。きっと、想像してしんみりしてしまったんだろう。
「おーい、何考えてるんだよ。縁起でもないことを言うなって、いつだったかそう言って俺に怒ったのはレイちゃんだろ?
 もしもレイちゃんがそんな思いをしなくちゃならない時は、俺が”ばかやろ”って書いた紙をその相手の男のおでこに貼り付けてやる」
 ナーイス藤野!
「想像すると可笑しい。でも不謹慎」
「いいんだよ、笑っちゃえよ」
 藤野はそう言うと、さっき使ったハンカチを、レーコさんのおでこに貼付ける真似をした。
「でもお母さんがちょっと、羨ましいな…」
 なんで? そんなことを頼めること?

 藤野は何か言いたそうだったけど、諦めたように俯いてハンカチを畳むと、ズボンのポケットに押し込んだ。
「とりあえず……さ、おふくろの為に明日は頼むよ。本当に悪いんだけど」
「悪くないよ。大丈夫。任せておいて」
「恩に着るよ」
「着といて着といて。うんと厚めに恩に着ておいて」
 でも、そうやって恩に着せるようなことを言っても、後からそのことで何か見返りを求めることもないんだろうなって、アタシは知ってる。そして藤野がそれを不満に思っていることも。

「それじゃまた」って、案外あっさりと言って黒い上着を着直した藤野を見て、アタシはまた黒出目金を思い出した。人間は死ぬとどうやら、花と一緒に何かに入れられて、坊さんにくるくるっておまじないをされて焼かれるらしい。アタシたちは草むらに放り投げられておしまいだったけどな。
 そういえば、金魚すくい屋のおっちゃんも、アタシたちに「悪いな」ばかりを言っていた気がする。
「悪いな」で、ポイ。

 あの黒出目金も今頃はちゃんと、お日様に焼かれて灰になっているのかな。
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