(34)難しそうなチョコレートケーキ 
 ヤギヤギが帰ってしまって、レーコさんと美月がふたりでご飯を食べている。
 ものすごく静かだ。
 レーコさんがテレビをつけて、「何か観たいのある?」なんて聞く。美月が首を振るからテレビを消す。そうするとまた静かさが際立つ。前に、セリカが来ていたときもそうだったな。お祝いなんだから乾杯くらいすればいいのに。

「あの……」
「ん?」
「明日また、ここのキッチン使っていいですか? うちじゃお母さんがうるさくて…」
「明日?」
 レーコさんの顔に、「ということは、今日は泊まって行くの?」とか「お母さんは知ってるの?」とか、いろんな疑問が浮かんだのをアタシは見た。それならそうと、葉月さんからも連絡をくれたらいいのにとも思っただろう。でも、何も言わない。

「レーコさんも一緒に、チョコレートケーキを作りませんか? こないだの小麦粉とか、まだありますよね。なければ駅前のスーパーで全部揃えられるの、わたし、さっき確認して来ましたから……」
 お菓子作りの話になると、急に美月のおしゃべりのスピードは上がるみたいだ。
「小麦粉ならあるけど……」
「明日は忙しいですか?」
「ううん、そうじゃないけど」
 苦手なんだよね、いきなり予定を入れられるの。

「あ、……そうか、あさってバレンタインなんだね。それでチョコレートか……」
「レーコさんはそういうの、しないんですか?」
「手作りは、したことないなぁ。美月ちゃんは毎年作ってるの?」
「はい、小4のときからずっと」
 へーえ、地味な感じなのに、活発なんだね。
「あげる相手も決まってるの?」
「はい……まぁ、幼なじみというか……」
 あれ? 赤くなってる?
「そうかぁ。いいね」
「いいなんてそんな、あの、すごく変な奴なんです」
「変なんだ」
「うん」
 そうか、美月は変な奴が好きなのか。

「レーコさんは、チョコレートあげないんですか?」
「なんだか、そういうのは苦手なのよね」
 だよね。
「ええー? ちゃんと手作りしてあげた方がいいですよ」
「そうだね……そうすればよかったね」
 出た。過去形。
 でも美月は気づかないのか、学校のカバンから少し大きめの本を出してテーブルに置くと、
「一緒に作りましょう。レーコさんが見て、難しくてすっごく面倒くさそうなレシピを、この中から選んでください」
 と言った。
「なんだか、どれもわたしには難しそうだけどなぁ」
「秋野桜子先生が、あ、漫画家の先生なんですけど、こないだ作品の中で言ってたんです。バレンタインにはできるだけ手のかかったチョコレートをつくると、自分の気持ちが良くわかるのよ、って」
「ふーん……。だけどこんな大変なの作ったら、もったいなくなって、あげようと思っていた人にもあげたくなくなっちゃいそう」
「そういう人は、自分が一番好きなんですよ」
「あ、そうなのか……」
 中学生に教えられてどうする、レーコさん。

 そのとき、ちっさいながら優秀なアタシの頭が、何かを思い出した。
 水槽の中をぐるんと一周、アタシはその記憶のシッポをつかまえる。
 そうだ、「自分が一番好き」って、レーコさんがハラッポに言われた言葉だ…

「レーコさんは、自分が一番好きなんですよね。自分が一番好きだから、俺にはどこか、冷めてるんだ」
 なんてね。そう言われるとレーコさんはすごく困ってた。
 でもさ、ハラッポだって結局、自分が一番大事だったんだよね。
 もっともっと……って、子供みたいにレーコさんに愛をねだって、もらっただけ全部、ハラッポは持ってってしまったんだよ。
 ああ、もったいないことしたねぇ、レーコさん。アタシに足があったら、ハラッポのとこに行ってレーコさんの愛を全部取り返して来てやりたい。「もっとって言ったじゃないか! ずっとって言ったじゃないか! 一生って言ったじゃないか!」って、言ってやりたいよ。キィー!
 ……なぁんて、アタシが悔しがったってしょうがないんだけどさ。
 
 次の日、キッチンからはまた一日中、甘い匂いがしていた。ほとんどは美月が作業して、レーコさんはレシピの本と美月の間を行ったり来たり。そうして夕方近くなって美月が家に帰ると、やれやれっていう感じでレーコさんはアタシのそばに座ったんだ。

 少し疲れた顔だね。

「ふぅ……。雪、積もらなくてよかったね」
 アタシは、雪というものを見たかったな。
「あれさ、あの人が、持ってたんだね……」
 ん? なんだろう。
「わたしね、原くんが持ってるんじゃないかって、思ってたんだ……あのカギ。そういう話をしたことがあったから。だから、スペアキーがないことには少し前に気づいたんだけど、原くんが持っているんだろうなって、なんだろうね、すとんと信じてしまったんだ」
 きっと、信じたかったんだね、まだ繋がっているって。
「原くんがまだ持っているんだって思ったら、なんとなく元気が出るっていうか、気持ちが楽になってね、かえって早く忘れることができそうな気がしたんだ。
 でもさ、現物が出て来ちゃったらおしまい。もう勘違いの魔法は使えなくなっちゃった。
 だいたい、原くんならカギをちゃんと返すよね。持っていればちゃんと返してくれちゃうに決まってるのにね……何を期待していたんだろう……」

 レーコさん……馬鹿だね。
 何よりもまず、物騒だよ。カギをなくしたら、もっと焦らなきゃだめだよ。そもそも、なくした事にはもっと早くに気づかなきゃやばいよ。

 レーコさんが作ったチョコレートはテーブルの上、ラッピングされるのを待っている。
 やっぱり自分で食べちゃうのかな。
 できたら……できたら藤野にプレゼントして欲しいんだけどな。アタシからってことでさ。
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