(33)アタシの一番しあわせな日 
 目が覚めると、アタシはレーコさんだった。

 水槽の中からいつも見ていた青いテーブルの前に、アタシは座っていた。ヒレじゃなくて脚、というものの存在に気がついて、ぶらんと振ってみたら何か温かいものにぶつかった。その何かがすっと引っ込んだ方に顔を上げると、目の前には藤野のお母さんがいて、「どうかした?」 って、不審な顔でアタシを見ている。

 あれ? どうしてアタシ、このオバさんが藤野のお母さんて分かるんだろう。

 藤野ママの髪の毛は明るい栗色で、そのてっぺんは、猫でも乗せているのかと思うくらい、高く盛り上げてある。その後ろにアタシの水槽がちらっと見えるけど、中にはレーコさんが泳いでいるのかな。ちょっと怖くて確かめられない。

「それでね、」
 と、藤野ママが言った。
 なんの話の続きなんだろう。テレビをつけたらドラマの途中だった時みたいな感じ。それで、の続きはなんなの? と思ったら自然に声というものが出た。
「それで?」
 うわ、アタシ、レーコさんの声でしゃべってる。わ、面白い面白い。
「それで?」
 って、もう一回言っちゃったよ。

 藤野ママは細長いタバコに火を点けて、今度は、
「あの人ね、」と言って、ゆっくりとタバコを吸った。
「あのひとね?」
 あの人って誰さ。うわ、タバコの煙って匂いもついてるんだね。

「ふぅ……あの人ね、最後の頃にはもう、痛み止めの、……モルヒネ? あれのせいだと思うんだけど、意識が朦朧としていて、幻覚も見えてるみたいで、こうやって……こう、寝たまんま宙に手を伸ばしたりしてたのよ」
 怖いよ、藤野ママのその半眼と、雲を掴もうとするみたいな手つき。
「わたしや看護士さんが話しかけると、大きな声で返事はするんだけどね。もうほとんど会話にはならなかったわ」

 あぁ、これはきっと、藤野ママの恋人だった萩さんの話だ。
 末期ガンで入院していた萩さんを、藤野ママは病院の掃除婦になってまでして、こっそりと見舞っていたんだよね。それで、夜は自分のお店に出て……。まぁ、見るからにタフそうなオバさんだけど、大変だっただろうな。
「あの人ったら、身体はやせ細っているのに、膝から下はパンパンにむくんじゃっててね、それをさすってあげると、楽になったよ、ありがとうっていつも言ってくれていたんだけど……」
 アタシ、藤野ママの手をじっと見る。爪が長くて赤くて、でも良く見ると、水仕事でカサカサしたお母さんぽい手。アタシの大好きな藤野を育てた手だ。

「でもその日、わたしが脚をさすってあげてたらあの人、さっと脚を引っこめて、カッと目を見開くと言ったのよ」
「なんて?」
「眠いの! って」
 そう言うと、藤野ママは困ったような、悲しそうな顔で少し笑った。
「まるで子供みたいにね、眠いの! って言ったのよ……」
「眠いから触るなってこと? ……ですか?」
「そうなのかしらね。怒ってるみたいに言うからわたし、びっくりしちゃって、それからもう、なにも出来なくてそのまま……」
「もしかしてそれが、最期の言葉になったの?」
 ドラマみたいに手を握って、「長い間ありがとう」とかじゃないの?
「そうなのよ。眠いの! っていうのが、あの人の、わたしへの最期の言葉」
 藤野ママと萩さんは、幼なじみだったはず。恋人になったのはいつからか知らないけど、でも、とにかくずっと長いつきあいだったはず。それなのに、そんな別れ方だったんだ。

「それはひどいですね」
 あ、思ったまま言っちゃった。声が出ることに慣れてないんだよ、アタシ。
「そうね、ひどいかもね。レーコちゃんに言われたくないけど」
「すみません」
「いいのよ。やさしい言葉ならそれまでにたくさんもらっていたし。もうあの人も疲れて、ゆっくり眠りたかったのかもしれない」
「いろいろと面倒な人生に疲れたんでしょうね」
「いやなこと言うわね、レーコちゃん。
 でも、そうね、わたしとのことにも、本当は疲れていたのかもしれないわね。
 だからさ、あの子には誰かにそんな思いをさせる男にはなって欲しくないなって思うのよ」
 あれ? そこに繋がるの? それって、藤野にはちゃんと結婚してほしいとか、浮気するなって意味? それとも病気するなとか、入院するなってこと?
 とにかく、相当ショックだったのは分かったよ、藤野ママ。

「だけどあれですよ、もしもそのとき脚をさすっていたのが奥さんでも、萩さんは同じことを言ったかもしれないですよね」
 アタシ、ちょっと慰めてみたつもり。
「どうかしらね。ま、どっちにしろ、終わっちゃった……」
 うーん、しんみりするのいやだなぁー。
 せっかくアタシがレーコさんをやってるんだから、藤野ママじゃなく、藤野がここにいればいいのに。
 そうだよ、
「ねぇ、藤野はどこ?」
 って、ストレートに訊いちゃったよ、アタシ。
「ああ、さっき電話を一本かけてくるからって出て行って……あ、ほら、うわさをすれば……」

 わ、いるじゃないの、藤野!
「藤野!」
 知らないうちに、アタシは生まれて初めて立って歩いていた。だって近づきたいもん。
「会いたかったよう、藤野!」
「どうしたのレイちゃん。そんなに驚いて」
 だって本当に驚きだよ。人間の目で見る藤野はとってもクリアで、水槽の中から見ていた以上にかっこいいんだ。なんかこう、すうぅっとしてて、爽やかで。
「藤野は素敵です!」
「なんだよ、なんか変じゃない?」
「変じゃない変じゃない。しょっちゅうこんな風に藤野のことを見てるのに、なんにも感じてないレーコさんの方が変」
「やっぱりレイちゃん変だ。おふくろ、何か話したの?」
「ええ。結婚のことをね」
 ええー? けっこーん? そんな話だったっけ?

「なんだよ、まだ早いよ、その話」
 藤野は少しむっとしているけど、……け、結婚?! レーコさんと藤野が?
「早くないですよ。こういうことはタイミングなんだから」
 って、藤野ママ。
 そうだよ、タイミングだよ。早くないよ。むしろ遅いよ。
「アタシはお母さんに賛成! すぐにしようよ、結婚!」

 嬉しい!
 いつの間に結婚話が進んでいたんだろう? アタシがキンギョだから分からなかっただけ? それともこれって、「夢でした、ちゃんちゃん」てやつ? ああもう、それでもいい。それでもいいよ。夢が覚めないうちにアタシ、思いきって藤野に抱きついちゃう。
「ねぇ、早く結婚しよう!」
 ふぁー、藤野の体温だぁー。
「ちょ、ちょっと、レイちゃん、俺が結婚するのがそんなに嬉しい?」
「あったり前じゃーん」
 もっときゅっと抱きついちゃう。

 ふと目をあけると、藤野ママがタバコを持った手を灰皿の上空に浮かせたまま、唖然としていた。
「あなたたち、ただの友達じゃなかったの? どういうこと?」
「どうって、アタシたち、結婚するんでしょ?」
 アタシ、藤野を見上げる。どきどきしちゃう。
「レイちゃんとじゃ、ないよ? 分かるよね、そんなこと」
「え? それじゃ藤野、誰か他の人と結婚しちゃうの?」
「いやまだその、決まったわけじゃないけど…」
「あらあなた、レーコちゃんのことはもう諦めたって、言ってたじゃない」
「それはそうだけど…」

 うそだ。
 藤野がだれかと結婚しちゃうなんてうそだ。
 いやだ。
 早く覚めて! こんな夢、早く覚めて!

 覚めろと念じながらぎゅっと目をつぶって藤野の胸に頬を押し付けていると、アタシの肩に、藤野の手がそっと触れたのが分かった。もっとちゃんと触って、もっとちゃんとぎゅっとして欲しい。

「いやだよ藤野。ほかの人と結婚なんかしたらだめだよ!」
「レイちゃん……?」
「絶対にダメ! お母さんも反対して! アタシが藤野を幸せにするから。最期まで、藤野の脚をさすって、眠いって言われてもさすって、最期まで一緒にいるんだから!」
 もう、何を言ってるのか自分でも分からない。声がちゃんと出ているかどうかもよくわからなかった。
 そしたら藤野が、ぎゅっとしてくれた。藤野の心臓の音がトクトク聞こえる。

 あぁ、なんていう幸せ。夢でもいい。アタシ、今、死にたいなぁ……。

「レイちゃん!」
 ついに、何かを決心したような藤野の声。

「レイちゃん……なんか、……生臭いよ」

 ああっ、やっぱりアタシ、今死にたい。
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