(36)もう帰れってアタシは念じた 
 藤野はひゅぅっと息を吸い込むと、「くずまきさんにあったよ」と、一息で言った。陰気な「だるまさんがころんだ」みたいだった。「だるまさんがころんだ」みたいに、レーコさんの背中が固まった。

「……どこで?」
 と、やっと声を出すと手も動いて、テーブルの上を拭き始める。藤野が来たからお茶を淹れるところだったんだ。藤野はまだ、立ったままでいる。
 
「先週、仕事でジャカルタに行ったんだ。そのとき」
「あの人も、仕事?」
「仕事ですか? って聞いたらさ、滅相もないって鼻で笑われた。あ、とりあえず水くれる?」
 藤野はどこかでお酒を飲んで来たみたいだ。飲んでから来るときって、なんかあるんだよなぁ……。ちょっといやな予感。

「なんかさ、仕事ですかって訊いてんのに、はぐらかす意味が分かんないっていうか、何をしてるんだか言わないんだ。あっちに住んでるんじゃないかな。真っ黒に日焼けして目がぎらぎらして……まるで現地の人みたいだったよ」
 藤野は思い出すだけで不愉快みたいだ。
「それで?」
「久しぶりに会ったんだからつきあえよって、地元の人しか行かないような酒場とか食堂に連れていかれてさ。どこへ行ってもみんな葛巻さんのことを知ってんだよな。知ってて、遠巻きにしてるみたいな、そんな感じ。相変わらず、他人を警戒させる天才だよ、あの人。それなのに、妙に親し気に振る舞って相手を困惑させるんだ……」
「そう……」
「日本と比べたらバカ安いんだって言いながらがんがん飲んで、遠慮するなよってがんがん飲まされたんだけど、結局は俺が払ってんの。バカみたい」
 レーコさんが水を出して、バタンと冷蔵庫を閉めた。
 
「レイちゃんは、最後に会ったのいつ?」
 レーコさんは黙って電話機のところに行って、留守電の再生ボタンを押した。
 咳払いのあとで濁った声が聞こえて来た。
『……オレだよ。元気か? 最後に会ったのは、レコの誕生日だっけ。ハタチの祝いにワイン持って会いに行ったら、もう別れたんだから関係ないでしょって、冷たく突き返されたんだよな。悔しいから思い切り玄関先で割ってやったっけね。あのワインの色と匂いはもう消えましたかぁ? あははははは……』
 いやな笑いの途中でピーーーーっと鳴ってその声は終わった。
 藤野の顔が引きつっていた。
 
「ここの電話番号、藤野くんが教えたんだね」
「いや、俺は……」
「いいんだ。どうしてあの人が番号を知ってるんだろうって、それが気もち悪かったんだけど、理由がわかってよかったよ」
「違うんだよ、日本の最新式携帯ってどんなのって言われて見せて、でも勝手に操作するからすぐに返してもらったんだ。だからほんの1、2分で……」
「あの人、記憶力はものすごいから……」
「でもまさかあの時に? くそっ。ごめん」
「いいよ、どってことないよ。それに、ジャカルタでしょ?」

 レーコさんは笑顔を作ったけど、アタシは笑えないね。葛巻ってどんな奴か知らないけど、電話はあれ一回だけじゃないんだ。あと3回くらいは留守電に吹き込まれてる。
 最初は「レコ」ってなんだろって思ったよ。レーコさんをレコだなんて、そのセンスからしていやだね。だからアタシも最近は、電話が鳴るとぞっとするんだ。留守電なんかレーコさんには聞かせたくないなって思うんだけど、でもやっぱり、帰ってくれば必ず再生するんだよね。
 
「だいたいさぁ」
 コップの水を飲み干すと、藤野の声のトーンが変わった。
「レイちゃんは高校ん時、なんであんな奴とつきあってたの?」
 うわ、なんだなんだ、藤野ったら逆切れ?
「俺、ずっと不思議っていうか、不可解でさ」
 レーコさんは無言だ。
 それならアタシだって「藤野はどうして千春さんなんかとつきあってたの?」って訊きたいよ。
 そう言い返してやればいいのに、どうしていつもレーコさんは黙っちゃうんだろう。

 その時、電話が鳴りはじめた。出ようとするレーコさんの二の腕を藤野が押さえた。
 留守電のメッセージが流れて、あの声が聞こえて来る。
 
『また留守電か……。レコと話したいのになぁ。藤野ちゃんのせいでおまえのこと思い出しちゃったら、たまらなく懐かしくてさ。まぁ、また電話するよ。じゃぁな』 

 レーコさんよりも藤野の方が蒼くなって、掴んでいたレーコさんの腕を、突き放すみたいにして離した。「ごめん」って、なぜかレーコさんが謝っちゃってる。何も悪いことなんかしてないのに。  
 本当は、レーコさんはとても不安だと思うんだ。突然むかしの彼氏から、それもたぶん、レーコさんが振った彼氏から、あんな電話がきて気分がいいわけない。だけど藤野は、全身で「関わりたくない」って言ってるみたいだ。

 あーあ。やっぱり藤野って人間がちぃせーのかなぁ。まるで自分のことしか考えてないみたい。 いい男なのになぁ。夢にまで見た藤野なのになぁ。

「俺さ、むかしっから生理的にだめなんだ、あの人」
 なんだよ、今度は言い訳?
「生徒会の先輩で頭も切れたし、弁も立ったし、一目置いてるやつらも多かったけど、俺はとにかく苦手で、先輩が卒業して視界から消えた時はほんと、ほっとしたんだ。そしたらさ、レイちゃんとの噂が聞こえて来て、レイちゃんとアイツが……」 
「やめてよ。もうずっと前に終わったことなんだし」 
 そうだそうだー。蒸し返すなー。

「大丈夫よ。しばらくずっと留守電にしておく。あの人もそのうち飽きるでしょ。わたし、会う気なんかないし、電話で話す気もないから」
「あんまりそう言われると、よほど過去に何かあったのかなって、気になるね」
 なんだよ藤野ぉーーー!!
「そうじゃないよ。そうじゃなくて、ただ、もう会いたくないから……」
「べつに、俺に気を遣う筋合いはないんだからさ、レイちゃんの好きにすればいいんだけど」
 きぃーーー! そんなのアタシの好きな藤野じゃないぞぉー! 
 
「今だから言うけど、俺、大学んとき、呼び出されたことがあったんだよ、葛巻さんに」
「なんで藤野くんが?」
「俺がレイちゃんの新しい彼氏だって、誤解したんじゃないの?」
「それで?」
「話しておきたいことがあるってさ、いろいろ……聞かされた。つきあい初めからの、二人のいろんなこと。たぶんその話をして、俺に手を引かせようとか、思ったんじゃないの? それか、単なる嫌がらせ」
「なんでそんな話を黙って聞くのよ! っていうか、どうして聞きに行ったの?」
「興味は、……あったから」
「信じられない……」
 
 アタシも信じられない。何が「今だから言うけど」だ! 墓場まで持ってけ!

 レーコさんと藤野はテーブルを挟んで向かい合って立ってる。向かい合ってるけど二人の視線はテーブルの上にあって、レーコさんは椅子の背を握り、藤野は腕時計の留め金を外したりはめたりしながらお互にむっとしている。
 
 うっわー、いやな空気。
 
「今日はそれを、言いに来たの?」
「分かんない。俺、ずっと忘れてたんだけど、葛巻さんに会ったらうわっと思い出しちゃってさ……」
 ああー、イライラするなぁもう。
「レイちゃんの過去とかなんだとか、全部もう、悔しいっていうかなんていうか……」
 それって、ハラッポのことも含まれてるのかな。
 藤野にだって、いろんなことあったに決まってるのに、なんでうじうじと過去のことを言ってるんだろう。やっぱり少し、酔ってるのかな。酔っているせいなのかな。
 
「分かったよ。藤野くんにいやな思いさせてごめん……」
 レーコさんは言った。
 謝ることなんかないのに。怒ったっていいのに。
「違う。レイちゃんに謝ってもらいたいわけじゃなくて……。ああ、俺、何言ってるんだろう……」

 もう帰れ帰れ! ってアタシは念じた。
 たぶん藤野は、葛巻に会ってイヤな思いをしたんだろう。でも、自分の気分を害されたことばかり言って、レーコさんの気持ちはちっとも考えないなんて、勝手すぎる。
 それに、葛巻のことを藤野がどう思おうと、今の葛巻がどうであろうと、レーコさんの過去まで否定するのはよくないよ。

「今日は、もう帰る」
 あ、アタシの念が通じた?
 そうだそうだ、出直して来い。

 レーコさんは椅子に腰を下ろして、バイバイと、手だけを小さく振った。玄関まで見送らないのは精一杯の意地なのかもしれない。
 そりゃ、レーコさんはショックだよね。葛巻が藤野にどんな話をしたのか、藤野が引くような、どんなイヤらしいことを話したのか、想像しただけでわかるし、ぞっとするよ。
 
 結局、今までずっと藤野がレーコさんとの距離を縮められなかったのは、内心でそういう過去のことに拘っていたからだったのかな……。

 だとしたら、つくづくちぃせぇーなぁー、藤野。
 どうせならもっともっと本当に小さくなって、金魚になればアタシが鍛え直してやるのに。なんにも言わないレーコさんの代わりに、尾びれでびしびし叩いてやるのに。  



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