(38)アタシなんかただの金魚 
「俺! 雨宿り雨宿り!」
 インターホン越しに八木の声がして、レーコさんは慌ててテーブルの上の雑誌やテレビのリモコンなんかを片付けようと抱えたんだけど、ドンドン! とドアが叩かれたら「もういいや」って感じで、全部アタシの水槽の横に置いた。

 このスペースって、ハラッポの私物置き場だったんだよね。バイクの鍵とか、アパートの鍵とか携帯とか。ハラッポなんかもう、すっかり来なくなったのに、あれからもずっとこの場所を空けてある。無駄だと思うけどね、アタシは。
 そういえばあれから藤野も来ないなぁ……なんて感傷に浸りかけてたら、びしょ濡れの八木がヒャーヒャーいいながら部屋に入って来た。後からレーコさんがタオルを抱えてきて八木の肩に放る。あーあ、床に足跡ついてるし。
 
「やだもう、びっしょびしょ。拭いてから入ってよ」 
 っていうか、勝手にズカズカ上がってくんなよって言ってやってよ。
「レーコが家にいて助かった。降りそうだとは思ってたけどさ、まさかこんなに、なんて思ってなくてさ」
「バイクなの?」
「いや、自転車」
「自転車でここまで?」
「そ。自転車に凝ってんだ、最近」
 へぇーえ、そうなんだー。ま、アタシは興味ないけど。

「ここにさ、俺の服とか置いてなかったっけ」
「あるわけないじゃない」
 八木は3枚めのタオルで頭を拭いている。その髪、長すぎるよ。
「あ、捨てたんだろ、冷たい女」
「最初から置いてないわよ」
「そうだっけ……」
 そうだよ。ヤギヤギがどれくらいレーコさんと一緒にいたのか知らないけど、出て行くときにはでっかいリュックひとつに全部詰めてたじゃないか。
「寒いの?」
「いや、大丈夫だけど」
 なんだろ、濡れた犬みたいに八木はいつもよりちっさく見える。金魚のアタシには母性本能なんてないけど、レーコさんは大丈夫かしら。

「こないだ、……行ったんだって? 映画、風間と」
 カザマ?
「うん、行ったよ」
「どうだった?」
「まあまあだった」
「まあまあって、かわいそうだな、風間のやつ」
「違うよ。まあまあだったのは映画」
 もしかして風間って、こないだ八木が連れて来た楽器店の、話のつまらない青鉛筆?
「……で、つきあうの? アイツなら、まあまあいいと思うよ」
「まあまあよくたって、八木さんには関係ないでしょ」
「まあ、そうだけど」
 そう言いながらヤギヤギは自分でタオルを取りに行った。4枚目。あ、5枚目も持ってる。同時に2枚使って濡れた身体と衣服を拭いて行く。

「俺さ、オマエと昔つき合ってたこと、アイツには黙っててやろうと思うんだよね。風間ってそういうのすごく気にす……」
「待ってよ。あの人、なんにも知らないの?」
「知らない」
「どうして? なんで隠しておくの?」
「隠しちゃいないけど、わざわざ話すきっかけもなくてさ」
 そういうのは、言わなくても何となく分かるような気もするけどね。
「じゃあ風間さんは、わたしとあなたをどういう関係だと思ってるの?」
 レーコと、俺? というように八木は人差し指で胸の辺りを指差して、
「レーコはさ、俺の教え子のガールフレンドの、……親戚のおばさん?」
 そうか、美月(レーコさんの従姉妹の娘)のボーイフレンドのなんとかが、八木にギターを習ってるんだって、こないだ言ってたね。
「それだけ?」
 あんなにヤギヤギがレーコさんに馴れ馴れしくしてるの見てたのに、それだけって思うかな。
「そうじゃなきゃオレに、レーコさんてどう思う? なんて訊かないぞ、あいつ」
「訊かれて、なんて答えたの?」
「なんか、めんどくさそうな女じゃない? って言っといた。なぁ、風間とつきあえば?」
「そんなこと考えてないよ。映画だって、美月ちゃんたちと一緒だから行ったのよ。デートみたいな感じだったらいかなかったよ」
「どうして」
 どうして……って、ねぇ……。

「ねぇ、この雨は止みそうにないよ。どうせならここに寄らずに、一直線に家まで走ればよかったのに。家じゃなくても、早苗さんのとことか……」
 そうだよ、まったく。
「冷たいこと言うよなぁ……俺はレーコのことを女神のように思い出して駆け込んで来たってのに」
「なにが女神よ。めんどくさい女って言ったくせに」
 そういいながらレーコさんは隣の部屋に行くと、まだビニールに入ったままの新しいパジャマを持って来た。若草色のストライプ。
「なんだよそれ」
「あなたに着られそうなサイズの服はこれしかないから、とりあえず、これ着ててよ。乾燥機で服、乾かしてあげる。あ、一応言っておくけど、わたし、あなたを信じてるんだからね。パジャマだからって泊まってくとか、冗談でも言いださないでよね」
「言わねえよ。っていうか、着られねぇよ、こんなパジャマなんてみっともねえ」
 あ、露骨に目をそらした。
「似合わなくたっていいじゃない。外に着て行くわけじゃないんだし」
「そうじゃなくってさ。おまえが出して来たパジャマってのが気色悪いっていうか……。なぁ、なんだよそれ。本当は誰に着せたかったわけ?」
「いいでしょ、そんなこと」
「いいよもう、帰ればいいんだろ」

 何だか知らないけどヤギヤギは急に不機嫌になって、レーコさんに背を向けて携帯を操作しながらなおもブツブツ言う。
「あの委員長だか生徒会長だか、ほかの誰だか知らないけどさ、とっくに振られたんじゃねぇの? 新しいパジャマ置いておくなんて、レーコらしくないしみっともねぇったら……あ、もしもし、おれ、悪いんだけどさ……」
 レーコさんは、ヤギヤギが使ったタオルを集めて、洗濯機の中にぼん! と投げ入れた。すげ、レーコさんも怒ってる。
「早苗が車で迎えに来てくれるから、悪いけど自転車だけ玄関で預かってくれよ。大事なんだ、中古だけど雨ざらしにはしたくない」
 レーコさんは黙っていたけれど、八木はマンションの前に置いたらしい自転車を取りに行った。
 戻ってくると、かばんから出したタオルで自転車を丁寧に拭いている気配がする。
「なんだ、タオル持ってるんじゃない」
「これは自転車のだから」
 それっきりふたりとも口をきかないし、八木は玄関から動かなかった。
 
 しばらくすると、 
「レーコちゃんごめんねー」と、早苗さんのやたら元気で大きな声がした。
「やっだぁ、びしょ濡れじゃない。ほら、適当に持って来たから早く着替えなよ。ったく、子供だってこんな日にはちゃーんと雨具を持ってったてのに。何やってんのよ、ほら早く脱いで脱いで。とりあえず全部脱いじゃいなさいよ……」
 矢継ぎ早に早苗さんの声がして、なんとなくレーコさんは挨拶を返すきっかけも逃したし、着替えていると思えば玄関にも顔を出しにくくなってしまったみたい。
「違う違う、それじゃ後ろ前でしょ、もう、ほらこっち……。ねぇ、このシャツで良かった?」
 なんだかアタシには、早苗さんがわざと大きな声で言っているようにも思えた。そしてとっても用意がいい。
「はい、靴下も。サンダルも持ってきたし」
 全部ぱぱっと用意して来たんだね、すごいや早苗さん。
 脱いだ濡れた服も、くつを入れる袋だって持って来ていて、レーコさんには何ひとつ頼むこともなく、
「じゃあな、悪いけど、自転車頼むな」という八木の声が終わらないうちに、「じゃあねー、ごめんねーレーコちゃん、またねー!」と早苗さんが言って、バタンとドアが閉まって、あっという間にふたりは消えてしまった。

 結局、最後まで早苗さんは声だけだった。

「やっぱり、女神は早苗さんだよね……。どうせ、わたしはただのめんどくさい女なんだ」

 なんだよ。「どうせ」ってなんだよ、そんなこと言うなんてレーコさんらしくないやい。
 アタシなんかね、アタシなんかどうせただの金魚なんだからねっ。
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