(40)もう要らないんだね 
「自転車に乗って自転車を取りに来たりして、どうやって二台持って帰るつもり?」
 と、笑いながら言うレーコさんの声が玄関から聞こえる。
 突然の大雨に降られた日に置いて行った自転車を取りに来た八木は、またべつの自転車に乗って来たらしい。
 二股かけて一度に二台乗る気?
 いつものようにずかずか部屋に入ってくる八木の後ろから、ねえねえ、どうするのと言いながら来るレーコさんが、ちょっと楽しそうだからいいんだけどいいんだけど。

「今日乗って来たやつは、ここに置いて帰るから」
「それでどうするの? またそれを取りに来るの? 自転車に乗って?」
 そうか、そういうエンドレス作戦なのか? さすがヤギヤギ。
「いや、来ない。こっちのはレーコにあげる」
 そう言うと八木は乗ってきた自転車の鍵をテーブルの上に乗せ、レーコさんの方にすべらせた。赤いビニールの輪っかと小さな鈴が付いていて、チリッと鈍い音が鳴った。
「なによ急に」
 さっきまで屈託なかったレーコさんの笑顔に、ハテナっていう字が貼りついた。

「自転車欲しいって、言ってただろ?」
 そうなの?
「言ってないよ」
「言ってた」
「言った?」
「言ったよ。バイクや車じゃなくて、いつか自転車で一緒に遠出したいねってさ、言った。川原で」
 なにそれ。いつの時代の話だろう。
 レーコさんがヤギヤギにそんなことを言うなんてアタシには想像できないよ。

「あ、思い出した。でもそれはずっと前のことじゃない」
 わ、本当なんだ。
「レーコはさ、そうやって忘れちゃうんだよな、自分が言ったこと」
 そう言いながら換気扇の下に行ってタバコに火をつけるヤギヤギは、相変わらず我がもの顔だ。
「忘れたわけじゃないよ、ちゃんと思い出したもん。バイクを置いて、川沿いのサイクリングロードをずっと歩いた時でしょ? 春だよね。あ、夏だったかな……」

「その金魚」
 なんだよ、タバコでアタシを指差すなよ。
「その金魚のことだってそうだ。どうしてもそいつが欲しくて、レーコが頑張ってもだめで、お願いって言うから最後は俺がすくってやったのに、頼んだことはすっかり忘れて、絶対に自分がすくったんだって言い張る」
「だって、ちがうもの。それはあなたの思い込みで……」
 そうだよそうだよ、何回言ったら分かるんだよ。アタシはレーコさんのポイに乗ったんだからね。

「それ、おまえの思い込みだとは思わないわけ?」
「え?」
 うそ。
 ってことはアタシの思い込みでもあるってこと?
 レーコさんも急に自信がなくなっちゃったみたいで、アタシの方をぼんやり見てる。ぼんやり見つめ合っちゃうレーコさんとアタシ。

「俺はこう見えてもコツコツとレーコの願いを叶えてきたんだからな。だから自転車だってさ……」
「……」
「なーんてな。本当のこと言うと、早苗ちゃんにプレゼントした自転車なんだけど、あいつはママチャリで十分だって言うんだよ。まあ、まだ子供を乗っけないといけないこともあるからな。だから、あのチャリはレーコにやる」
 なんだよそれ。なんか、納得できないぞ。

「なによ。じゃあ、私が欲しいって言ったからっていうのは嘘じゃない。思い出して損した」
 レーコさん、なあんだなあんだと言いながら、すとんと椅子に座る。 言った責任を感じなくて済んでほっとしたのかな。
「とにかく、俺はレーコが自転車欲しいって言ってたのを覚えていたんだよ。だからこそ自転車を買うことを思いついて買ったんだ」
 むむ、でもそれは早苗さんのためでしょ? ヤギヤギの言うことはよくわからないぞ。

「レーコも自転車があったら買い物だって、あ、そうだ、通勤だって地下鉄の駅の方まで出ちゃえば楽じゃん」
「そうだけど。私がもらってもいいのかな」
「いいんだ。餞別だ」
「え?」
 せんべつって、なに?
「どこか行くの?」
「行かないけど、もうここには来られないと思う」
「どうして?」
 ヤギヤギ、もう来ないの? なんでなんで?

「早苗ちゃんがさ、なんか、最近は嫌がるんだよ、俺がレーコと会うのを。前はなんにも言わなかったのにな」
 そうだよね、早苗さんはヤギヤギのことそれほど好きなわけじゃなかったもんね。だからレーコさんのことも平気だし、みんなでわいわいしている方が楽しいとか言ってたの、アタシも覚えてるよ。
「やきもち?」
「……かな」
 そういえば、あの雨の日にヤギヤギを迎えに来た早苗さんの態度は変だったな。
「それは……なんだろ、よかったねって、言えばいいのかな 」
「まあな。ヤキモチ焼かれてなんぼだよな。だから、俺なりに色々考えて、もうここには来ないことにしました」
 ヤギヤギはぐるっとレーコさんの部屋を見まわした。本当に最後にするつもりなのかな。 なんかあたし、さびしくなってきたな、おかしいな、いやなやつだと思ってたのに。

「じゃあせっかく自転車があっても、もう一緒に遠出はできないってことだね。願いの叶え方が中途半端だよ」
「おまえ、そういうときばっかそういう……。じゃ、これからあの川原にでも行こうぜ」
「行かないよ。だって早苗さんに知られたらだめなんでしょ?」
 あれ? なにをすねたふりしてるんだろう。
「なんだよ、レーコも妬いてるの?」
 そうなの?
「そうじゃないよ。そうじゃないけど、急に邪魔者にされた身にもなってみてよ」
「そんなこと誰も言ってないだろ」
「でもそうでしょ? 要るものと要らないものに分けたら、わたしはもう要らない方の箱に入るんでしょ?」
 流行の断捨離だね。

「大袈裟だなあ。そもそもはさ、レーコが俺のことを捨てたんだぜ?」
 うむ、そうであった。
「レーコだって、俺みたいなのがいつまでもウロウロしてたら 迷惑だろ?」
「私のためだ、みたいに言わないでよ。迷惑だなんて言ったことはないはずだよ」
 ヤギヤギがいるときは、妹のあっちゃんやケータや、親戚の美月ちゃんとか他の誰かがいて、いつも楽しかった気がするな、アタシも。
「わかった。余計なこと言った。
 俺は、早苗ちゃんとずっとうまくやっていきたい。レーコのことも大事だけど、それで早苗とうまくいかなくなるのはいやだ。だからもう来ない。それが全てです。はい、俺の勝手です」
 天秤にかけたらレーコさんの方が軽かったんだね。まあ実際、早苗さんの方が重そうだけど。

「あなたのそういう正直なところが、好きで嫌いよ」
「それはどうも」
 ヤギヤギは腕を広げておどけた挨拶をした。それから携帯用の灰皿をジーンズのポケットから出してタバコを捨てた。前は灰皿が見当たらないと空き缶を使っていたのに、いつからそんなしゃれた物を持ち歩くようになってたんだろう。
「タバコもこれでおしまいだ」
「え? 禁煙するの?! できるの?」
「太一がぜんそく持ちだしな」
 太一って、早苗さんの子供のことだったかな。やさしいんだね。やさしいんだよね、八木は。
 もうレーコさんはなんにも言えないよ。

「じゃあ元気でな。自転車、気をつけて乗れよ」
 そう言うと、ライターも灰皿もテーブルの上に置いて、ヤギヤギはあっさりと、いつものように帰ってしまった。レーコさんはありがとうも言えなかった。
 あっけないね。数分前のレーコさんの笑顔もすっかり消えちゃった。

「このジッポはさ」
 レーコさんはぼしゅっとライターつける。
「これは私が一緒に選んで買ったんだよ。わたしだって、ちゃんと覚えてることだってあるのよ」
 なんだか少し悔しそう。そして少し寂しそう。
「一生手放さない。墓場まで持っていくって、言ったんだよ、あの人」
 そこまでは無理だと思うけど、そうか、それなのに置いて行ったんだね。そのライターも、要らない物の仲間になっちゃったんだね。
「だいたいさ、お餞別っていうのは、去って行く人に送るものだよ」

 それでも、ヤギヤギのことだから、そのうちまたひょっこり現れるんだろうなと思った。
 レーコさんも、アタシも、心の片隅ではそう思っていたんだ、そのときは。



  

   ← ...top...