(5)懐かしい名前で呼ばれたような気がした
 懐かしい名前で呼ばれたような気がして水槽の中を一周して戻ると、横一面にぼよよんと伸びたスズキさんの顔があった。
「やぁ、べべちゃん、オレのこと覚えてる?」
 覚えてるも何も、いくらアタシが金魚だからって、そんなヘンテコな名前で呼ぶのはスズキタクローだけだ。アタシもこいつに呼び名をつけたはずだったけど、なんだったっけ。

 スズキさんは水槽の中を熱心にのぞき込んでいた。
「おまえさ、あれ、どうした? あれ」
 あれって、あぁ、前にスズキさんがレーコさんにあげようとしてあげられなくて、ポチャンとこの水槽に落としたあの指輪か……。
 どうしたっけ……。
 こないだアタシが具合悪くてバケツに移されていた間に、レーコさんが水槽の掃除をしたような気もするけど、なにしろ具合が悪かったからよく覚えてない。

「ないなぁ……。食っちゃったとか? 死にそうになったって聞いたけど、指輪なんか食ったからじゃないだろうなぁ……」
 んなばかな……。相変わらずスズキさんはくだらないことを言う。
 そうだ、スズっちだ。アタシはこの人をスズっちって呼んでいたんだっけ。
 それにしても本当にどこにいったんだろう。レーコさんがその指輪をしているなんてことは絶対になかったし。

「あの……スズキさん、わざわざありがとう。もう、大丈夫だから……」
 化粧を落として部屋着に着替えたレーコさんの声がすると、スズっちはアタシのところから離れた。なんだかレーコさんはいつもと違って見える。
「レーコちゃん、何か食べたいものとかない? コンビニ行って買ってくるよ」
「ない。大丈夫。寝ていれば治るから……明日も明後日も休みだし」

 レーコさんはそういいながら、片手でだるそうに近くを片づけた。雑誌とか、無造作にイスにかけてあった上着とか、テーブルの上のカップだとか……
「熱、計ってみた?」
「うん……。37度8分」
「寝てなよ。オレ、別にこの週末だって何の予定もないし、ここにいてやるから……な?」
 それまで所在なさそうに立っていたスズキさんは腰をおちつけようとしたのだろう。キッチンのテーブルの前のイスを引こうとした。そのとき、
「いいから!」
 と、レーコさんは急にびっくりするほど大きな声で言った。
「ごめん……。でも、いいから……大丈夫だから」
「なんで。オレはなんにもしないよ。ただ、キミが何か必要な時に……」
「いいの、なんとかなるんだから。
 スズキさんじゃなくても誰でも、誰かがいたら気になってわたしは眠れないの。わかってよ……」

「それじゃ、キミが二日間部屋にこもっていても困らないだけの買い物をしてくるよ。それくらいオレがしてもいいだろ? 偶然、具合の悪そうなレーコちゃんを見かけて、こうして送って来られたのだって何かの縁なんだ」
「でも……」
「だから千円ちょうだい」
 スズキさんは子どもみたいに手を出す。レーコさんは思わず笑って、
「千円じゃ足りないでしょ」
「あとはそのうち請求するから。とにかく千円。それなら買い物頼むのも少しは気が楽だろ?」
「ありがとう」
「それから鍵貸して。買い物して、それを置いたらまた戸締まりして帰るよ。鍵は新聞受けから戻しておくから。
 だから、レーコちゃんはオレのこと気にしないでもう寝てな」
「わかった……ありがとう」

 レーコさんに鍵を渡されると、スズっちは無造作にそれをコートのポケットに突っ込んで、(そういえばスズッちはまだコートを着たままだった)
「じゃ、今のうちに挨拶を済ませておこう」といい、
「おやすみ。お邪魔しました。また今度な」と手を振り、
 それでも寝室に引っ込まないレーコさんに、
「さっさと自分で寝室に行かないと、お姫様だっこして連れて行くぞ」と脅して追いやった。

 それから買い物に出かけて戻ってきたスズっちは、荷物をテーブルに乗せるや、そわそわとレーコさんの寝ている部屋とキッチンの間の短い距離を行ったり来たりした。
 まさかこいつ、レーコさんの寝込みを襲うつもりじゃないだろうなとアタシが疑いはじめるころ、スズッちはふっと方向を替えてアタシのところにきた。

「べべちゃん、見てよ、これ」
 それはレーコさんが預けた部屋の鍵だった。銀色のキーホルダーが付いていて、よく見るとそこにはあの指輪が一緒に通されている。
 なーんだ、そんなところにあったのか……。
「な、これはどういうことだと思う?」
 と、スズッちは声をひそめてアタシに聞く。

「指には、はめてくれてないけど、捨ててなかったってことだよな?
 毎日こうして鍵と一緒に、持っていてくれたってことだよな?
 ってことはオレ、まだ期待していていいのかな。どう思う?」

 レーコさんのことだから、いつでも返せるように持ち歩いていたってことも考えられるとアタシは思うけどね……。

 それからスズっちは買ってきたものを冷蔵庫やしかるべき場所にしまうと、お湯を沸かしてポットに入れ、ガス栓や戸締りを確認し、
「また来るから!」と、決意も新たな挨拶をアタシにして帰っていった。

 新聞受けに、ちゃらんと鍵が落ちる音がした。
 

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