(10)スイートスプリング
 レーコさんはこたつでずっと、大きなみかんを食べ続けている。ナイフで4つに切っては、かぶりつくようにして食べている。
 ちょっと前に部屋に来たハラッポは、その横でティッシュの箱を抱えてしゃがんでいる。革のジャケットもまだ着たままだ。

「酸っぱくないんですか? それ」
「全然酸っぱくない。食べてみる?」
 レーコさんは一切れを右手でハラッポに差し出し、ついでに左手でティッシュを一枚抜き取ると鼻をかんだ。
「ほんとだ甘い。これって、なんなんですか?」
「スイートスプリング。みかんと八朔のあいのこなんだって」
 へぇーと言いながらハラッポはもう一切れ食べる。レーコさんは次のみかんにナイフをいれる。
「レーコさんが目新しいもの買うなんて、珍しいじゃないですか」
「もらったのよ」
「……で、今日中に全部食べないと祟りがあるとか言われたから必死で食べてるとか?」

 アタシは思わず笑った。確かにレーコさんの食べ方は異常だ。

「一応言っておくけどね、妊娠なんかしてないわよ」
「わかってますよ……いや、わかんないけど、そんなこと考えてませんよ」
 レーコさんがハラッポに手を伸ばす。ハラッポはティッシュを一枚出して渡す。レーコさん鼻をかむ。

「ひどそうですね、花粉症。やっぱり今日は出かけたくない?」
「うん……」
「そっか……。俺、今日はバイクで遠出できたらいいなと思って、もうひとつメット持って来たんだけど……」
 レーコさん、はっとして、それから嫌そうに首を振る。
 ヘルメットって、あの暑苦しいやつだよね。他の人が被ったやつだったらいやなんじゃないかな。
「明日、なら大丈夫かもしれないけど」
「あぁ……でも、明日は、俺……」

「うそよ、明日なんて」
 レーコさんは急いで次の一切れに手を伸ばした。
「ねぇレーコさん、今、俺を試しました? いいですよ、明日でも。なんなら今晩……」
「猫はどうするのよ。出来ないことは言わないで」

 レーコさんが左手を出す。ハラッポがティッシュを渡す。レーコさん鼻をかむ。そのまま、レーコさんは下を向いてしまった。
「ごめん。わたし、余計なこと言った」
「俺も……」
 ハラッポは立ち上がると、こたつの上のみかんの皮を片づけはじめた。まとめると既に山のようだった。そうしてキッチンからビニール袋を持って来ると、どんどん皮の山を掴んで突っ込む。ちょっと乱暴に。
 だめだなぁ、ハラッポ。レーコさんのペースにはまっちゃってる。
 
「なんだか最近、ぎくしゃくしてますね、俺たち」
「俺たち……か」
 レーコさん「俺たち」を味わっている。甘いのかな、酸っぱいのかな。
「最近のレーコさん、元気がないっていうか、メールも素っ気なくて、どうかしたんですかって訊いても、べつに、だし……これでも俺、いろいろ気にしてるんですよ、どうしたらいいんだろうって」
 アタシにもわからないよ。結構長い時間ここでこうしてレーコさんを見ているけど、実はハラッポと同じくらい、レーコさんの気持ちは何もわかってない。気づいてみるとこれはちょっとした驚きだ。

「去年の、あのクリスマスの夜……俺、やっとレーコさんにさわれたって思った。いや、変な意味じゃなく。これから始まるんだって、ものすごく嬉しかったです。
 でも、違ったんですよね……。むしろあの日からおかしくなってきた気がする。前よりもなにか、ぐちゃっとしたような……」
「前の方がよかったよね」
 えー? それって、ちょっとひどくなーい?
「前……って?」
「ずっと楽しかったじゃない? 一緒に映画を観て笑い転げたり、みんなで飲みに行ったりボウリングしたり。
 原くんは原くんで、わたしはわたしで。一緒に過ごす時間だけ楽しければ良かったあの頃が。愉しかったよ。
 キミのことばっかり考えて、嫉妬したり言い争ったり、どろどろとか、ぐちゃぐちゃとか、そういうふうになるの、なんかいやだよ……」

 今度はハラッポが鼻をかんだ。
「俺も、どろどろとか、ぐちゃぐちゃとか、そういうのはやですよ」
「でしょう?」
「なんか、大事ななにか、壊れる気がするし」
「でしょう?」
「でも、前の方がよかったなんて、そんなこと言わないでくださいよ。俺、どうしたらいいんですか……」

 お友達でいましょうってことじゃないの?
 ほーらほらほら、一緒に沈んでるんじゃないよ、まったくもう。どろどろやぐちゃぐちゃになるのがいやなら、ならないようにすればいいことなんじゃないの?
 アタシは混乱して水槽の中をくるくる回った。
 ふたりの会話がさっぱりわからない。
 通じてるなんて、シンジランナーイ。

「ごめん。この話やめよう。わたし、きっと原くんに甘えてるんだ……」
 それを聞いてハラッポ、小さくため息をついた。甘えられるのは困るのかな。
「怒った?」
「いや、そうじゃないけど……。ね、なんでしたっけ、このみかんの名前」
「スイートスプリング」
「スイートスプリング……か」
 レーコさんが手を伸ばす。ハラッポはティッシュを一枚渡す。レーコさん鼻をかむ。
「いい名前ですね」
 そう言いながら、ハラッポはこたつの、レーコさんの隣りの辺に入って、しっかりと座りなおした。
「とりあえず、俺がここにいて、レーコさんと一緒にみかん食ったり鼻かんだりするのは、全然かまわないですよね。かまわないっていうか、レーコさん嬉しいですよね、本当は」

 返事の代わりにレーコさんが手を伸ばす。ハラッポは箱からティッシュを一枚出す。そうしてそのティッシュをレーコさんに渡す振りをして寸前に引き上げて、自分の鼻をかんだ。
「あっ、返して! いや、返さなくていい! いい! んもうー、汚いなぁ……」

 この二人の会話は良く理解できないけど、ぐるぐると水槽の中を回っていて、ひとつだけアタシは分かった。
 ハラッポと笑っているときのレーコさんは最高に美人なんだ。
 たとえ鼻の頭が真っ赤でもね。
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