番外編 原くんとあたし
 自慢じゃないけれど、原くんに抱かれたのは、みい子よりあたしの方が先だった。

 あたし、白猫のみぃ。趣味は尾行。
 原くんちに住んでいるけど、ほんとうの飼い主はみい子だ。猫みたいな名前の塚原みい子。人間、女子。

 あたしは、みい子と同じ家で生まれた。あたしの母親の名前はシロ。みい子の母親の名前はめり子。めり子の「めり」はメリーさんの「めり」だっていうんだからまぁ、自分の娘に「みい子」って名前を付けるのも想像の範囲内ね。その上、あたしにまで「みぃ」って名前を付けちゃうのは、ややこしくてどうかと思うんだけど。

 あたしは、ずっと前から原くんに目をつけてたの。
 なんてったって、あたしの憧れはアパートに住むことだったんだもの。
 なぜって? ほら、アパートってだいたい、あたしたち猫には住めないものじゃない? そこにこっそりと、秘密裏に、飼われてみたかったのよ。それも一階じゃなくて二階とかがいい。そろりそろりと階段を上り下りするスリル、最高。

 みい子の家はお母さんとやってる美容室なんだけど、裏に回れば普通の一軒家だからつまんない。野良猫だって庭先を歩き放題よ。あたしは「禁じられた場所」に住みたいの。
 それで、そんな憧れのアパートと、飼ってくれそうな住人を捜し歩いているうち、原くんをみつけたわけ。
 ひと目で、あ、この人は猫好きだってわかったわ。匂いがしたのよ。鰹節があったかいご飯の上で踊るときの匂いっていえばいいかしら。

 何度か原くんの尾行をして、ある日、今日みたいな春の雨の日だったんだけど、あたしは作戦を決行。雨に濡れたまま毛づくろいもせずに、原くんちのアパートの階段の下で寒そうにうずくまっていたわ。そうして原くんが帰ってくるのを待ったの。
 本当はそんなに寒くもなかったし、いくらでも雨を避けられる場所はあったけどね。そこは、演技。
 原くんは思った通りやさしくあたしを抱き上げて懐に入れると、部屋まで連れていってくれたわ。きゅん。
 そうしてあたし、そのまま居座っちゃった。


 みい子はあたしを探してるうちに原くんと知り合ったんだと思う。あたしは、みい子に家に連れて帰られては、また原くんのところに戻って来たり、何度もくり返してたんだけど、気づいたらもう、アパートでみい子が原くんの髪を切ってあげてたりなんだり、つまり、ふたりは親しくなっていたの、とっても。
 みい子もアパート暮らしに憧れていたのかしらね。

 みい子は右の耳だけが少しだけ不自由。そのせいで結婚話がだめになったこともあって、あのときはあたしもみい子を慰めるのに大変だった。
 お店に出るときは小さな補聴器をつけてる。美容師だって黙って髪の毛を切ってるわけにはいかないものね。 
 でも、普段は外してるの。
 そのみい子の右の耳にくちづけて、原くんはいろんなことを囁いてた。

「あなたの声は不思議とちゃんと聞こえるわ」ってみい子が言うと、
「じゃ、なんて聞こえたか言ってごらん」と原くんはからかって、そうするとみい子は右の耳から真っ赤になる。らぶらぶっていうやつね。

 だけど、そういうことが最近ちょっとだけ少なくなってる気がしてた。何が変わったんだろう。
 微妙に部屋の中の濃密さがなくなってて、ある日、なんとなく以前のように原くんを尾行してて、あたしは見てしまったんだ。

 原くん、別の女の人に会ってる。

 しかも、猫が嫌いそうな女の人!
 猫の背中なんか絶対に撫でそうもなくて、ちょっと触ったらすぐに手を洗いに行きそうで、足下にすり寄ったら「かわいい」とはいいながらも思わずよけちゃうような、要するにあたしの嫌いなタイプの女の人。
 なのに、とても原くんと親しそうで……。もしかして、もしかすると……?

 うーん、やばいわ。お忍びアパート生活の危機!
 そう思ったあたしはとりあえず、
「みゃーお」って、猫っぽく鳴いてみた。
 原くんになんて声をかけたらいいかわからなかったから、ただ猫みたいに(猫だけど)歩道の隅、汚いガードレールの下から鳴いてみた。
 そしたら原くんが振り向いた。あたしを見つけた。

 みい子。みい子ならどうしたんだろうな、そんなとき。

 あたしは、あたしはとっさに通りに飛び出してしまったんだよね……。
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