- 花戻し -


 お庭にある、六角の石灯ろうのそばに植わっているひと群のキキョウを、わたしは姉に誘われて刈るのです。夏空の下に涼しげな紫の花はまだ若いのに、「切ってしまわなきゃ、お花が秋に咲かないの」と、裸足のまま庭に降りた姉は容赦なく刈っていくのです。「だって瑠美ちゃん、キキョウは秋の七草でしょう?」

 わたしは刈られた一抱えのキキョウの花を、無造作に新聞紙でくるむと正伸さんの家に向かいます。鼻のあたまに汗の粒を乗せ、走ってきましたと顔を真っ赤にして、ぐしゃぐしゃになった新聞紙で手のひらは黒く汗ばんでいます。わたしを見た正伸さんのお母さんは驚いた顔をするのですが、構わずわたしはキキョウを差し出します。「姉が刈りました」と、きっぱりと差し出します。

 おばさんはキキョウを受け取る代わりにそろっと退くと、無言でスリッパを並べてわたしを家に上げてくれるのです。わたしはキキョウを抱えたまま、正伸さんのいる座敷にまっすぐ向かいます。思い切りよくすたすたと、スリッパを鳴らして長い廊下を急ぎます。

 正伸さんは高校の先輩で、その頃の正伸さんの部屋は、二階にありました。階段を上がってすぐの、廊下からもう正伸さんの私物だらけという乱雑さの中、閉めることのできないドアの前、漫画本の上に置かれた扇風機が、ぶおぉと唸りながら今にも倒れそうな微妙なバランスで回っていたものでした。そうして正伸さんの向かう机の上にはいつでも、扇風機の風ごときには負けない、分厚い本が開かれているのです。日に焼けた肌に太く短い髪の、スポーツ選手にしか見えない正伸さんですが、本当に勉強家なのでした。

 今、一階に移された正伸さんの部屋はとても片づいています。一歩足を踏み入れると、ひんやりと静かな香りのする四畳半です。わたしは正伸さんと向かい合って畳に座ります。でも、すぐに立って、花瓶に入れてあった花を抜いて庭に放り投げ、代わりにキキョウをぐいと挿します。それから、手のひらをジーンズのお尻になすりつけて汗を拭います。やっと両手が空いて、わたしはとてもほっとして、汚れのない手の甲の方で額の汗をぬぐいました。正伸さんはそんなわたしをただにこやかに笑って見ています。

「このキキョウは、お姉ちゃんが切ったのよ」と、わたしは、おばさんに言ったのと同じ言葉をくりかえします。正伸さんは「お姉ちゃん」と聞いて、ちょっと赤くなったように見えます。まったくどうして、正伸さんは姉と恋人同士になったのでしょう。正伸さんは姉じゃなく、ずっとわたしを好きでいるべきなのに。そうであったならば、おばさんも昔のように笑って「あら瑠美さんいらっしゃい」と、わたしを迎えてくれたはずなのに。

「確かにお姉ちゃんはわたしより美人かもしれないけど」
 そう言ってあげると正伸さんは、遠慮もなくえへへと眉を下げてだらしなく微笑みます。

 卒業を待たず秋には結婚しましょうと、正伸さんは姉と約束の指輪を交わしてしまいました。お医者になることが正伸さんの小さな頃からの夢で、正伸さんのお父さんもお母さんも正伸さんの将来に期待をしているのです。そんな正伸さんがうちのお姉ちゃんのような、高校も中退でちょっとおかしなところのある何歳も年上の、ほかに取り柄もない美人なだけの女が妊娠したからすぐにでも結婚をしますだなんて、おばさんたちにしてみれば晴天の霹靂だったでしょう。わたしはとっても、おばさんには同情しているのです。かわいそうなおばさん、かわいそうなおじさん。


 カラランとかすかに氷の音がして、振り返ると座敷の入り口に盆に乗せられたグラスが置かれていました。それはいつだったか、正伸さんの後輩として初めてここを訪れたときに出して頂いたのと同じように、水玉模様のコップに入ったカルピスで、色違いのストローが差してあるのです。

「瑠美さんも医学部を目指しているのですって?」と尋ねられた、あの最初のときの、期待のこもったおばさんの美しいまなざしをわたしは覚えています。わたしは、わたしの未来の母となるかもしれない女性の理知的な視線を浴び、観察されることを、全身で心地よく感じ、誇りにさえ思ったほどでした。

 あの頃のわたしは毎日必死で、とても必死で勉強をしていました。赤い糸の伝説は、生まれながらに小指同士が赤い糸で繋がっているというものだったかもしれませんが、わたしは、小指ではなく意志の薬指で繋がるものだと信じていました。正伸さんとわたしの間にある左手薬指の赤い糸を強固にするためならばどんな努力でもしました。

 なのに、なのにいつの間にかわたしは「恋人の妹」に格下げされていたのです。いったいどういうわけなのかとわたしが抗議すると姉は、「途中で割り込んできたのは瑠美の方だったわ」と全く失礼なことを言ったものでした。

 ねぇ、正伸さん、お姉ちゃんは処女だったでしょう。きっとそうなのです。だから、たった一度の過ちで妊娠したことを「愛し合っている証」だなんて、あの知的なおばさんの前で堂々と言ってのけてしまえたのです。ただお姉ちゃんが妊娠しやすい体質だっただけのことなのに、子供ができたなら結婚しましょうなんて、正伸さんはなんて律儀なのでしょう。ばか正直でかわいそうな正伸さん、やっぱりわたしが助けてあげなければなりません。

 婚約の整った去年の夏、正伸さんと姉はレンタカーを借りてキキョウを見に秩父へ出かけていきました。夏の花をすっかり刈りとる「花戻し」前の、キキョウの畑を見に行ったのです。
 ハンドルを握る正伸さんの左手には指輪があって、それはお姉ちゃんと結婚することを周囲に告げていました。でも正伸さんの顔はどう見ても、浮かない様子なのです。結婚に心からは賛成しかねていたおじさんとおばさんのことを考えていたのでしょうか。

 姉は何も気づきません。助手席で左手を下腹部に添えて幸せそうに微笑んでいます。目の前の景色を見るだけで、人の心を覗いてみる想像力がひとつもありません。わたしの用意したポットのお茶を運転中の正伸さんに差し出して、既に奥様気取りのあの人には、大事なセンサーが何かきっと足りていないのです。ただ、無駄に美しいだけなのです。

 正伸さんの左手、左手のその薬指は必ずわたしの薬指と繋がっています。お姉ちゃんよりも数倍優れているわたしのものなのです。結婚相手がわたしならば、おばさんもおじさんも喜んでくれる。その方が正伸さんも百倍幸せに決まっているのです。

 車はどんどんスピードを上げていたのでしょう。なんでもない単調な道をどんどん走っていたのでしょう。
 走って走って、やがて正伸さんの瞼がふっと重くなり、車はガードレールを越えてふわりと一瞬空を飛びました。

 姉はその刹那、愛する二人に神様が同時の死を与えてくださるのだと思ったかもしれません。けれども、もちろんそうではありませんでした。正伸さんが姉と一緒に逝ったりなんかするわけがないのです。

 だって、そうでしょ、正伸さん、あなたはわたしだけのものなのですから。


 風鈴の音がしたような気がして後ろを向くと、おばさんが座敷の入り口に、何か言いたげな顔で立っていました。

 そろそろおいとまをしなければいけないようです。
 また来ますね、正伸さん。

 はい、おばさま、見つからなかった薬指、ですか?
 正伸さんの薬指ならばわたしのものです。ええ、もちろん。ですからわたしがこの手で大切に大切に埋葬いたしました。うちのお庭の石灯籠の脇、この桔梗の植わっているその下に。

 ほら見てください。正伸さんも「それでいいんだよ」と微笑んでいます。姉ですか? ええ、元気になりました。なかなかふくらまない下腹部を幸せそうになでながら、秋にキキョウが咲くのを今年も楽しみにしています。
 姉はまだ正伸さんを待っているのでしょう。姉は正伸さんと赤ちゃんを永遠に待ち続けるのでしょう。正伸さんはわたしのものなのに。本当に本当に馬鹿なお姉ちゃん。

 あらおばさま、顔が土気色ですよ。実際、ずいぶんとやつれてしまわれたように見えます。どうぞご自愛くださいね。


 お庭の石灯ろうの脇に植わったひと群のキキョウを、わたしは姉に誘われ刈るのです。
 切り口から白い涙を流して、キキョウは花を亡くしました。