ケヤキの下で

 あの子は「秘密の場所」っていったけど、ここにくればどこからでもあの丘とケヤキの大木が見える。

もくじ
 夏休みを待たずに東京を離れてから20日たった。ママは相変わらず機嫌が悪い。この町にはお友だちもいないしスポーツクラブもカルチャーセンターもないから退屈なんだと思う。
 昨日は一緒に市民プールに行ってくれたけれど、ママは脱衣所の床がびしょびしょで気持ち悪いとかトイレが汚いとか言って、二度と行かないと決めてしまった。

 でも私はここが好きだ。季節ごとの「よそ者」に慣れているらしいこの町では、14歳の私が何歳に見えるかなんて誰も話題にしない。夏休みでもないのに学校はどうしたの? なんて訊かれもしない。別荘の電話はほとんど鳴らないし、インターホンも鳴らない、FAXはないから来ないしバイオリン教室もない。
 バイオリンが嫌いなわけではないけど、あのケースを持って歩くのは目立つからいやだった。あれを持っていたから佐野先生にも声をかけられたんだって、私は今でも思っている。

 バイオリン教室にはいつもならママが車で送ってくれるのに、あの金曜日は「PTAのご用があるから、華子一人で行ってちょうだい」って言われた。
 学校のPTAの仕事のために子どものことが後回しになるのは変。でも、一人で電車に乗ってバイオリン教室まで行くのはキライじゃない。ママが見ていない方がずっとリラックスして演奏できるし、ミセス・ナカネ(日本人だけど、先生がそう呼べと言うのだ)にも「ワンダホー」って褒められた。ちょっといい気分だった。

 レッスン後の帰り道、もう少しでS駅というところで小雨が降り出して、折り畳みの傘は持っていたけど、いいやって歩き出したら後ろから声をかけられたんだ。
「鈴村くん?」って。
 顔を上げて見たら3年の担任をしている佐野先生だった。一年生の私の名前、覚えてるんだってびっくりした。

「バイオリンか。先生も憧れたなぁ、こどもの頃」
 佐野先生はそういって並んで歩き出した。何気なく傘をさしかけてくれているから、私も少し歩くスピードを落とした。そしたら、
「フルーツパフェ食べないか?」
 って、ごく普通に先生は言った。佐野先生は頬からあごまで髭をはやしている。背はあんまり高くないから、その髭が私の目の前もぞもぞ動く。ママは先生らしくないからいやだわって言ってたし、「キモイ」っていう同級生もいたけど、間近に見るとその動きはなんだか可愛いかったし、先生は、先生だ。

「フルーツ…パフェですか?」
「ほら、あそこの店。入りたかったんだけどひとりじゃなぁ……って思ってたんだ」
 それは雑誌にも載る有名な店で、私がママにねだっても連れていってもらえないお店だった。そのくせママはお友だちと時々行ってるって私は知っているんだけど。

 とにかく、足が向くまま、私は先生と一緒にパーラーに入ったんだ。
「どうして?」ってあとからママに何度も聞かれたけど、フルーツパフェが食べたかったからと、佐野先生と話しているのがいやじゃなかったから。それだけのことだった。

 知らなかったんだ。しばらく前から先生が援助交際してるっていう噂があったなんて。
 相手は別の学校の子だったから、それだけなら大騒ぎになったって私になんの関係もなかったのに、どうしてか、週刊誌に載ってしまったのは、フルーツパフェを食べてる先生と私だった。隣の椅子にはバイオリンのケース。 たとえ後ろ姿だって、多少ぼやけていたって、私を知っている人が見れば私だって分かる写真だった。

 言い訳なんか何も通用しなかった。っていうか誰にも何も聞いてもらえなかった。みんな、ホントのことなんかどうでもよくて、噂の種だけを大事に育てていたんだ。「いくらもらってたんだろう」とか「佐野センとなんてキモイ」って。
「鈴村さんて、前からなんか嫌いだったのよね」と、聞こえよがしに言う声も聞こえた。
 
 「いやらしい、いやらしい、いやらしい」耳の中でずっと聞こえていた。

 クラスにはもう、男の子とエッチしたことある子だっているのに、そういう話を、いつもはみんな喜んで聞いたりしてるくせに、なにもしていないのに私は「いやらしい」と後ろ指をさされた。ママは「華子は馬鹿だ」って泣いた。パパは「ママが華子を放っておいたからだ」となじって、ママは「パパだって仕事のことばかりじゃない」って言い返した。
 まるでテレビドラマの夫婦喧嘩みたいだった。意地悪な友だちの言葉も、ありきたりな先生の説教も慰めも、このころに聞いた言葉はみぃんなドラマの中の台詞みたいだった。
 そして、「どうして?」と訊かれるたびに私に言えたのは、「パフェが食べたかったから」だけ。
 ああ、なんて間抜けな台詞なんだろう。

 毎日イタズラや嫌がらせの電話が鳴った。ファックスはすぐに紙がなくなった。ポストはゴミ箱みたいになった。

 悔しくて吐きたくなることもあったけど、全く他所の世界の出来事だと思おうと思えば思うこともできた。もともと部屋でひとりでいることは好きだったし、友達の誤解にも慣れていた。面倒な付き合いをするくらいならこのままずっと学校に行かず家にこもっていたっていいんだと私は思い始めていた。絶対に泣かなかったし泣けなかった。
 心がどんどん閉じていっていた。

 でも大人のママはそうはいかない。最初は半狂乱になって否定して回って、それからげっそりと痩せるほど無口になって落ち込んで、パパが見るに見かねて貸し別荘を見付けてきた。それから夏休みを待たずに、私たちはこの町に逃げて……いや、避難してきたんだ。誰にも「いやらしい」と言われない町に。

 私は小学校の4年生の頃から、周りのみんなより背が高くて大人びてみえる自分が嫌いだった。
 誰よりも早く初潮が来た。ナプキンをランドセルに隠し持ち、トイレのたびにこそこそしなければならない、その数日間がいやでたまらなかった。誰よりも早く胸も膨らんだ。ママにしなさいと強制されたブラジャーの線が、背中にくっきりうつるのもいやだった。
 上級生に待ち伏せされたりラブレターをもらったり、そういうことがいちいちいやで、 もっと小さく可愛く生まれたかったと思いつづけてきた。

 もしも私がもっと子供っぽかったら……って思う。
 少なくとも「鈴村さんが先生を誘惑したんじゃないの?」なんてことは、言われないで済んだかもしれない。

 パパは週末になると、洗濯物を積めたバッグを持って東京から来る。
「ここの蝉はうるさいな。パパが子供の頃みたいだ」
 と、懐かしそうに笑う。
 パパは会社で私のことをなにか言われたりしないんだろうかとちょっと気になるけど、パパはママより大人みたい。

「その後どう?」
「ああ、いや、少しずつ収まってると思うよ」
「ホントに収まったのかしら。あなたは昼間家にいないんだものわからないわ」
 ママは何度も繰り返した言葉を言う。
「だから、ここへ連れてきてやったんじゃないか。だいたい、逃げ出すことはなかったんだ。華子にはなんの罪もないんだし」
 これはパパの決まり文句。
 パパは本当は私たちに家にいて欲しいんだ。ママがいないのは不便だしね。
「ほら、頼むよ」
 大きめの、コンビニの袋にぱんぱんに詰めた洗濯物をパパが鞄から引っ張り出して ママに渡す。 汚れ物でもきちんと畳んであるのがパパらしい。
 ママは「畳む手間をかけられるなら、自分で洗濯機くらい回して欲しい」と、ぶつぶつ言う。

 パパとママは前からこんなだっただろうか。
 もしかしたら「いやらしい」私のせいなんだろうか。

「ちょっと昼寝させてもらうけど、華子、あとでまた蕎麦でも食べに行くか?」とパパ。
「いくらおいしかったからって、またお蕎麦?」とママ。
「ねぇ、少しでかけてきていいかな」と私。
「この頃よく散歩にでるわね」とママ。
「遠くへ行くなよ。田舎だって安心はできないんだぞ」とパパ。
「そうよ、気をつけてよ……」とママ。
 パパ、ママ、パパ、ママ、パパ、ママ……「わかってるよ」

 私はいつもの麦わら帽子をかぶって外に出た。この町にきて唯一買ってもらったつばが広くて大きな麦わら帽子。パパが「東京でそんなのかぶったら回りが大迷惑なくらい大きいな」ってあきれた帽子だ。
 私が帰ってくるまでに少しでもパパとママのぎくしゃくが直っていればいいと思いながら、 観光客が集まるような町中への道は避けて、何でもない田舎道を行く。

 見通しのいい分かりやすい通り。大きな柿の木がある家と工場の間を抜け、空き地の横を右に曲がると下り坂。交差点の向こうには赤いポストのある駄菓子屋が見える。小さな県道を渡り夏草の茂る脇道に入って用水路にかかった石の橋をわたれば、あとは一本のまっすぐのびたあぜ道だ。

 あの子は、ミツくんは「秘密の場所」って言ったけど、ここにくればどこからでもあの丘とケヤキの大木が見える。

 男の子とあんなに自然に話せるなんて……と、ミツくんのことを思い出すと、私はとても胸がわくわくする。最初に会ったのは、パパと行ったおそば屋さんだった。ミツくんはそこの子供で、プールから帰ってきたところだった。次に会ったのは駄菓子やさんの前。プールに一緒に行くはずだった友だちが来なくてとブツブツ言いながら、二つに分かれるアイスの半分を、ぐいっと私に突き出した。「全部食べるとオレ、下痢すんだ」って言うから、笑った。
 全然知らない男の子だったのに、すぐにうちとけてしまった。

 同じ学校の男の子はみんな変によそよそしい。そうでなければ妙にいやらしい。
 パパは「華子がみんなより素敵だから男の子が敬遠するんだよ」なんて言うけれど、それは親ばかだと思う。
 ママは「いやらしい人間は、同じ臭いの人によってくるのよ」と言った事がある。それは私のことではなかったと思うけれど妙に心に残ってた。私がいやらしいから、いやらしい男の子が寄ってくるんじゃないかって、だから私は思ったりする。
 認めたくはないけど、ママの言うことは正しいのかもしれない。 私はきっと、いやらしいんだ。だから生理にも早くなっちゃったしおっぱいも大きいんだ……。どこかでそう思っていた。

 でもミツくんはいやらしくもよそよそしくもない。男の子であることも少しも意識しないで話しができる。女の子の友だちと話すように自然で、でもちょっとだけ新鮮な感じで。
 初めて逢った時から初めてじゃないみたいに話してた。話せば話すほど笑えるようになった。

「ねぇ、名前なんていうの? ぼく、ミツル。みんなはミツって呼ぶ」
 そう言ってはにかんだように笑った口の左端には八重歯が見えた。
「私は、華子。華やかっていう字の華子」
「ふーん……」
 ミツ君はちょっと宙に目を泳がせていた。「華やか」っていう字が思い浮かばなかったんだろう。私は慌てて、
「みんなはハナちゃんて呼ぶよ」と付け加えた。
「そうか、ハナちゃんか」ミツ君はほっとしたように笑った。

 本当は、「ハナちゃん」なんて呼んでくれる人はひとりもいない。 みんなよそよそしく「鈴村さん」と呼ぶ。でも、私はミツくんに嘘をついているつもりはなかった。私はハナちゃんだ。ミツくんにはそう呼んでもらいたかったんだ。

 私はケヤキの下へくると、いつもと同じ太い根っこに腰掛ける。 風がとても爽やかで、ふと、バイオリンを持ってくれば良かったなと思った。こんなところで練習できたらどんなに素敵だろう。でもバイオリンは東京だ。ママがあの日以来、バイオリンケースを目の敵にして、物置に突っ込んでしまったのだ。
「もともとはキミが無理矢理習わせたものを」と、パパは呆れていたっけ。

 佐野先生が捕まったあと、次の金曜日が来てもママはバイオリンを出してくれなかった。私も、バイオリンを持ってミセス・ナカネのところに行くところを誰かに見られるのは確かにいやだった。それでなくても、「バイオリンなんか気取ってる」という同級生もいたんだから。
 ママがミセス・ナカネにしばらく欠席するって電話をしていたっけ……。ミセス・ナカネは私のことをどう思っただろう。そこら中の人がそうであるように、やっぱり私のことも疑っているだろうか。それとも、担任の河田先生のように、「私は鈴村さんを信じていますよ」なんて、聖母みたいな顔でありがたいことを言ってくださるんだろうか。あれは本当にうそっぽかったな……。
 ああ、いやなことを思い出してしまった。

 その時、ペタペタとゴム草履で走ってくる足音がした。色あせた野球帽が最初に目に入る。ミツくんだ。
 立ち上がりかけたお尻を無理に落ち着けて、私は座っていた。ミツくんは当たり前のように隣に腰掛ける。走ってきた熱気がミツくんの身体から立ち上るようで、そばにいるだけで熱い。ミツくんはニコニコしながら空を見たりケヤキの枝を見回したり地面を見たりして、それから最後に私に笑いかける。やっぱり八重歯が見える。かわいい。

「ねぇ、こうしてるとアロアとネロみたいじゃない?」  
 私は大きな帽子を膝に抱えながら言った。
「なに? それ」
「知らない? フランダースの犬」
「うん、知らない」
「あのね、小高い丘の大きな木の下でふたりが話をする場面がね、何度も出てきたの」
「へーえ」
 ミツくんがそれ以上のことを知りたがらなかったから、私はほっとした。話している途中で『フランダースの犬』の結末を思い出してしまったからだ。ネロ少年をミツくんに重ねるわけにはいかない。

「あーあ、ぼく、リコーダーを持ってくればよかったなぁ。あれ、吹きたくなっちゃった」
「え?」
「なんだっけ、んんーんんーんんーーん……って曲」
「峠の我が家?」
「そうそう、うまいんだよぼく。今度聞かせてあげる」
 ミツくんは得意そうに笑った。本当に得意なのかな。
「私もね、バイオリンを弾きたいなって思っていたところなの」
 すらすらと口にできた。
「好きだよ、バイオリンの音。まだ生で聴いたことはないんだけど」
「聴かせてあげるね、今度。今は東京に置いてあるんだけど」
 私は心底、バイオリンを持ってこなかったことを残念に思いながら言った。するとミツくんが突然、「あー!」と言って立ち上がった。
「いっけねー、リコーダー、教室に置きっぱなしだよ。あーあー、夏休み終わるまで教室に入れないしなぁ! くそー、二学期まで吹けないのかぁ!」
 それから私たちは教室にぽつんとのこされたリコーダーを思い浮かべてちょっとしんみりした。 誰にも吹いてもらえず、窓も閉めきられた部屋で、リコーダーはじっと風を待ってるんだ。声を出したくて。
「早く吹いてやりたいなぁ」とミツくんは言った。

「じゃ、リコーダーもバイオリンも、いつか一緒に……だね」
「うん、約束だよ。きっと聴かせてよ」
「もちろん」
 私は小指を差し出しかけて、引っ込めた。急に恥ずかしくなって赤くなるのが自分で分かった。

 ミツくんといる時間はいつもあっという間に過ぎる。5時のサイレンが鳴ったのを機に別荘に帰ると、パパとママはダイニングテーブルで一緒にお茶を飲んでいた。ママの顔が穏やかだったから私はほっとした。ママはとても美人。だからニコニコしていて欲しい。そうしたらパパもご機嫌なんだ。

「ねぇ、パパ、今度来る時にはバイオリンを持ってきてくれないかな」
 私は忘れないうちにそう言った。パパはちらっとママの顔を見て、そして言った。
「持ってきてやってもいいけど、またすぐに持って帰ることになるぞ」
「そうよ、荷物を増やす事はないわ」
「え?」

「パパとママとで話し合ったんだけど、夏休みが終わる前に東京へ帰るよ。逃げるのはもうやめだ。華子がいつまでもこそこそすることはない。それにママも、いつまでもここにいるんじゃかわいそうだ」
 ママがかわいそうか。やっぱりパパはなんだかんだ言っても、忙しく外に出て輝いてるママが好きなんだな……。
「わかった。その代わり、帰ったらまた、ミセス・ナカネのところに通っていい?」
「もちろんだよ」
 パパとママはほっとしたように顔を見合わせた。帰ることを私が反対すると思ったんだろうか。忘れて貰ったら困る。東京を離れたがったのは私じゃなくてママなんだよ。
「じゃ、この次パパが来たら、帰る時は一緒だよ」

 その夜には、クラスのリーダー格の原田さんからの電話もあった。
「鈴村さん、ごめんね。私たちみんな、ひどかったなって、うん、話し合ったんだ。 それで私が代表して……。ごめんなさい。許してね。ほんとのこと言うとね、まだ変なこと言ってる人いるよ。でも、鈴村さんの味方もたくさんいるから。だからまた、二学期になったら会おうね」
 私はほっとした。原田さんがそう言ってくれるならたぶん大丈夫だ。原田さんは口先だけの人じゃない。それに私にはミツくんがいる。

 家に帰れる。その嬉しさが徐々に私の心に広がってきた。
 私の部屋、私のベッド、私の机、窓際のスヌーピー。そしてバイオリンにまた逢える。帰ったら早速ケースから出して磨いてあげよう。「峠の我が家」を弾いてみよう。
 私の毎日が戻ってくる。学校へ行って、勉強して、いいこともあったり悪い事もあったりして、でもいつも通りに先へと進んでいく日々が戻ってくる。そして毎日、ケヤキの下へ走って行ってミツくんに会って報告するんだ、今日はこんなことがあったよ、こんなこともあったよって、聞いてもらう。バイオリンも聴かせてあげる、私だってリコーダーも得意だよ。たくさんたくさん話して、面白いこと言って笑うんだ。前みたいにいやなこともあるだろうけど、どんなこともミツくんになら話せる。ミツくんならまっすぐに聞いてくれる。ミツくんがいれば大丈夫。あの笑顔がわたしを救ってくれる。大きな麦藁帽子のように私を包んで守ってくれる。落ち込んでもきっと、「ハナちゃんがんばれ」って八重歯をのぞかせて笑ってくれて、じゃあまた明日、明日もがんばろうねって毎日毎日、ケヤキの下で……?

 気がついたら頬を伝って涙がぼろぼろこぼれていた。
(終)


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