足の裏の地図

 

もくじ
 勇太がひとりで歩けるようになったのは、3歳になってからだった。産院で知り合ったママ友たちの子どもにくらべて、勇太だけが全てにおいて遅れていることが母親の月子には不安だったが、病院で診てもらっても特に理由は見つからなかった。
 歩けるようになった勇太は、それまで歩けなかった分を取り戻すかのように、月子に散歩をせがんだ。公園や砂場でしゃがんで遊ぶことはなく、まるで元気の有り余った小犬みたいに、母親を引っ張って歩くのだ。
 そして、なぜかそれは、月子が最初に勇太を連れて歩いたのと同じコースの繰り返しだった。

 ある日のこと、いつもの道の途中で立ち止った勇太が、
「あっち!」と、初めて違う方向を指差した。
 同じ散歩コースばかりでうんざりだった月子は、言いなりにそちらへ曲がった。それから、
「こっち!」と、大きな交差点を渡ろうとするのを、
「待ってね、信号がほら、赤だから」と止めた。
「あか!」
 勇太は言葉も遅く、まだ数語の単語しかしゃべらない。
「あお!」
 そう言って横断歩道を渡り終えた勇太が躊躇なく左に向かったので、これはもしかしたらと月子は思って訊いた。
「ねぇ、勇太、トーマスに行くの?」
「うん、トーマス、トーマス」

 昨日、勇太の肘の内側が赤くかぶれているのに気づいて、皮膚科に連れて行った。ママ友に教わって、月子も初めて訪れた病院だった。その診察室のドアに大好きな機関車トーマスの絵が飾ってあったのを、勇太はとても気に入ってしばらく離れなかったのだが、あのトーマスを目指して歩いているんだろうか。
 決して単純な道のりではないのに、勇太は先に立ってどんどん月子の手を引いていく。
 そうしてとうとう、病院の前に辿り着いた。
「トーマス!」
「すごいね、勇太、よく道を覚えていたねぇ」

 なんでも人より遅れているような気がしていた勇太の、隠れていた才能を見つけたような気がして月子はわくわくした。とはいえ、ママ友に言っても自慢返しされるだけだ。夫が帰って来たら夫に話そう。そう思ったけれど、帰りが遅かったので話しそびれた。このところ夫は毎晩のように遅いのだ。

 次の日、夫とも共通の友人である相楽麻衣子に誘われてランチに出かけた。勇太くんと一緒だから近所のファミレスがいいよねと、麻衣子が言ってくれたので、国道沿いのファミリーレストランまで、月子は勇太を連れて歩いて行った。
 独身の麻衣子は、そのまま高級ホテルのレストランに出かけてもおかしくないような麻のスーツで現れた。髪も肌も、主婦の月子と違って輝いていた。どうして麻衣子はこんなに気合いを入れて来たんだろう? と、訝しく思いもしたけれど、話し始めてみれば学生時代と同じ麻衣子だった。

 食事が済んで店の前で別れ、月子は隣にあったドラッグストアに寄った。麻衣子の若々しさに刺激され、急に新しい化粧品を買いたくなったのだ。
「それにしても、どうして急に会いたいなんて電話してきたのかな」
 もう何年も音沙汰なしだったのに、結局なんだったんだろうと考えながら、月子は口紅のサンプルを手に取って、色を手に付けて試して行った。
 勇太がそばにいないのに気づいたのは、その口紅の跡が手の甲に5本並んだ時だった。

「勇太?!」
 月子は慌てて通路のひとつひとつを覗いて勇太を探した。どこかにいる、必ずいる。自分に言い聞かせて胸の不安を押さえつつ探していると、通路の向こう、出口を出て行く勇太の後ろ姿が見えた。
 自動ドアが開いて、閉まる。
 月子は急いで勇太を追いかけて店の外に出た。勇太は舗道をどんどん歩いていく。その背中には不安の欠片も迷いも見えなかった。ただ、ひとりですたすたと歩いて行くのだ。

 月子はふと思うことがあって、数歩後ろを着いて行くことにした。
 何かあったらダッシュで助けることができそうな距離を保ったが、勇太は振り返りもしなかった。月子の選んだシャツを着た後ろ姿が、だんだんと知らない子どもの背中のように見えてきて、月子は歩きながらときどき強く瞬きをした。
 そうして25分近くかけて、勇太は家まで辿り着いた。
 初めて行ったファミリーレストランから、勇太は家までひとりで歩いたのだった。

 今度は、月子は夫に話そうと思わなかった。
 自分が化粧品売り場でぼうっとして、勇太をひとりにしたことを責められるのがいやだったからだ。どちらにしろ、その日も夫は遅かったから話すきっかけもなかったのだが。

 それから数日、月子はいろいろ試してみた。
 どうやら勇太は、一度行った場所は、まるで地図を描くように覚えてしまうようだった。けれども、電車やバスを使うとまるでだめだった。また、どんなに近所でも、自転車やベビーカーで行ったところは覚えていなかった。
 自分の足で歩いて行った場所に限り、その道を記憶しているらしいのである。
 試しに、盲滅法に40分ほど歩いた場所からでも、勇太はすたすたと家を目指して帰って月子を驚かせた。

 そうして、ある土曜日のこと。
「ちょっとブラブラ散歩して、釣り堀かパチンコにでも行って来るから。夕飯は勇太と先に済ませておいていいよ」
 夫がそう言って出かけようとするのを月子は珍しく止めた。
「あなた、この週末も出かけるの? たまには勇太と遊んでやってよ」
「でもこいつ、俺にはあんまり懐かないじゃないか」
「ちっとも家にいないし、遊んであげないからでしょ? ね、たまには連れて行ってあげてよ。この子、歩くのは好きだから、途中で抱っこだのおんぶだの言わないし」
「でもなぁ……」
「言葉が遅いのも、きっと父親からの刺激が足りないからよ」 と、月子は根拠のないことを付け足してみる。そうよ、この子は言葉が遅いの。まだ全然しゃべれないのよと。
「そうだな……。じゃ、連れて行くか。おい、勇太、出かけるぞ」
 月子の夫はしぶしぶ勇太を連れて出かけて行った。
 勇太は父親に手を引かれ、見えなくなるまで月子を振返りながら歩いて行った。

 数時間後、半ば予想した通り、勇太はひとりで帰って来た。
 月子は勇太を抱き上げて言った。
「ねぇ、勇太、勇太の大事なトーマスを、パパが持ってっちゃったみたいなんだけどどうしようね」
「トーマス? パパ?」
「そうなの。一緒に取りに行こうか」
「トーマス、トーマス!」

 地面に下ろすと勇太は、月子が玄関に鍵をかけるのも待たずに先に歩き出した。
 さすがに疲れているのか、時々は座り込んでしまうけれど、まるで何かに急かされるように立ち上がってまた歩き出す。 商店街を抜け、パチンコ屋も釣り堀も通り過ぎて隣町の住宅地に入る。そろそろ次の駅に近いんじゃないかというころ、小さなマンションの前で勇太は立ち止った。
「パパ!」

 入り口の扉を押して入ると、その先はオートロックのマンションだった。
 開かない自動扉の前で勇太は足踏みをする。
 月子は郵便受けに並んだ名前をひとつひとつ見ていった。知った名前があった。
「203 相楽 」

「勇太、おいで」
 勇太を抱き上げて、月子はインターホンで203号室を呼び出した。
「はい」と、麻衣子の声が答えると、勇太が伸び上がって言う。
「パパ! トーマス!」
「勇太くん?! 勇太くんなのね、心配してたのよ! 今ドアを開けるからね!」
 
 ふん、どれだけ気づかずにいたのよ。二人でなにしてたのよ。

 ピィーっと無機質な音がして、月子の前で自動ドアが開いた。
(終)

モクジ
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