桜

 窓越しに満開の桜を見ながら、母とふたり、懐かしい電車に揺られた。駅を出たら大通りを真っすぐに行く方が啓太郎の家には近いのに、迷わず左へ曲がったのは母が先だったのかわたしだったのか。少し斜め前を歩く母の、束ねた髪の後れ毛がちらちらと気にかかる。その強情そうな数本の白いものが、わたしにかすかな哀しみと説明のしにくい苛立ちを感じさせている。

 ゆるい坂道を上って小さな郵便局の前を過ぎ、次の道を下りながら、母の歩調はだんだんと遅くなった。十数年ぶりに歩く道、その周囲の変化にわたしも目を見張る。記憶と違い、そこはあまりにも明るかった。

「ねぇ、久美。ここに沼があったのよ……覚えてる?」
 左側の頬を見せて母が言った。
「うん、あったよね」

 子供の頃、坂から見下ろせる場所には、既に廃園になっていた古い幼稚園があり、奥には雑木林が広がっていた。その木々に隠れるようにして、小さな沼があったのだ。

 放置されたまま寂れた園舎の湿った緑色の屋根は、春になると坂の上から降り積もる花びらで桜色に塗り替えられたものだった。けれども、幼稚園はもちろん、桜の木も、どこにもない。坂の上には大きなマンションが建ち、沼は埋め立てられ、似たような建て売り住宅がびっしりと建っている。

「沼だったのに……ね」
 沼だったところに家が建っている。それが重大な秘密のように、母は小声でつぶやいた。

「それに……久美は覚えてるのかな……」
「ん……あぁ、わたしが啓太郎と一緒に沼にはまっちゃったこと?」
 母が思い出させようとする何かを避けるように、わたしはわざと違う(と思われる)ことを口にしていた。

 小学二年生になったばかりのころ、近所に住んでいた幼なじみの啓太郎とわたしは、ザリガニを釣ろうという年上のお兄ちゃんたちに連れられて、親からは 「絶対に行っちゃいけない」と言われていた沼のほとりに初めて降りたのだ。そうして、左足を沼に滑らせた啓太 郎、それを助けようとしたわたしが、一緒に沼に落ちてしまった。

 落ちたと言ってもすぐそこの浅いところだから、いくらでも自力で岸に上がることができたと知ったのは後のことで、その時は「底なし沼に落ちた!」と大騒ぎで大人を呼びに行く仲間の声が遠ざかるのを聞きながら、動いたら沈んでしまうに違いないと、わたしと啓太郎は手を握り合って泣いたのだった。

「そのあなたたちが結婚することになるなんて、縁があったのね……」
「でもね、啓太郎ったら沼にはまったことなんか全然覚えてないの。もう、病的に記憶力がないんだから」
「それでも、久美のことはずっと覚えていたのでしょ?」
「さあ、どうなのかな」

 啓太郎とわたしは幼稚園から小学校まで一緒だったけれど、高学年になれば意識しすぎて、あまり話もしなかった。啓太郎は私立の中学へ進み、すれ違いのまま一年後、わたしも父の転勤でこの街を離れていた。三年前の同窓会で再会しなかったとしても、いつかは交わる縁だっただろうか。
 啓太郎は確かにわたしを覚えていて声をかけてくれたけれど、覚えていることと忘れずにいることは、どこかが違うような気がする。

「本当に、すっかり変わっちゃったのね……」
 母が立ち止まってしまったから、わたしも仕方なく立ち止まった。
 母はここで、わたしに「あのこと」を思い出させたいんだろうか。それとも、何も覚えていないことを確かめたいんだろうか。
 
 母の目線の先には、新しいマンションの外階段が横に広がっている。昨日まで雨続きだったせいか、玄関先に雨傘を広げて干しているのが見える。 
 でもきっと、母はそこにないものを見ているんだろう。
 きっと、もっと遠いところを。

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 わたしがこの場所で思い出すのは、啓太郎と沼に落ちたことよりも、まだ若くて美しかった母のこと、そして満開を過ぎた桜の木のことだった。

 記憶の最初にある情景は、まだ幼稚園にも上がる前のものだろう。
 雑木林の中。
 舞い落ちる花びら。
 無心にそれを拾うわたし。
 すぐそばに母の足が見えていたから、わたしは安心してその場にしゃがんで遊んでいる。しばらくすると落ち葉を踏む足音が近づいて、母のそばにもう一組の足が並ぶ。底の厚い、紐付きのごつい靴。父のものではない靴だ。
 
 母とその人はいつも長い間、密やかに親しく言葉を交わした。園庭の向こうにある沼からは、かすかに湿った臭いがして、その臭いのように、母とその人の話し声もしめやかに静かで、ときどきの笑い声は柔らかく、ほどけるようにふわふわと、しゃがんでいるわたしの上に降りてくるのだった。

 見上げるのはいけないことのように思って、わたしはただ下を向いて花びらを集めていた。男の紐靴と母の華奢なサンダルは、わたしの小さな両手でそれぞれに触れられるほどに近くにあり、そのわずかな隙間を埋めるように、拾っても拾っても花びらは目の前に降りてきた。それは毎年繰り返されたのではなかったか……。

 ある時、その人の靴の紐がほどけそうになっているのに気づいたわたしは、花びらを拾うのをやめて、紐に手を伸ばした。直してあげられるような気がしたのだ。けれどもその蝶結びは、わたしの指先でするするとほどけてしまう。
 どうしようと手を止めたときに、

「ありがとう」

 いつも高いところで、母にだけ向かって発せられていた声が、初めてまっすぐわたしに向かって降りてきた。
 慌てて母の足の後ろに隠れたわたしの前で、その人はしゃがんで魔法のように素早く靴紐を結び直し、その姿勢のまま、
「直してくれようとしたんだよね? ありがとう」
 と、わたしの顔を見て言った。初めて見たその顔は、もう記憶の底で薄れてしまったけれど、微笑んでいたはずなのに哀しそうな目なのだった。

 その靴紐の人が誰なのか、母のなんなのか、その頃のわたしに分かるはずもなかったし想像もできなかった。誰にも訊かれないから誰にも話さないまま、いつしか、その人に会うこともなくなっていた。

 ところがあの日、わたしはそのおじさんのことを突然鮮やかに思い出すことになった。ザリガニ釣りのあの沼の真ん中に、ぽかりと浮かんでいる靴を見つけたのだ。底が厚くて無骨な、見覚えのある紐靴の、その片一方だけを……。

 今にして思えば、紐靴は後からはめ込んだ映像のような、あるいは夢の一部のような気がしてくることもある。
 沼に浮かんでいるあの靴を取って欲しいと、わたしが啓太郎に言い、届かないよと言いながらバランスを崩した啓太郎が沼に落ちて、わたしも落ちた。
 その沼の臭いも感触も覚えているから、落ちたのは事実だろう。けれども、きっかけになった靴については、本当にあのおじさんの靴だったのかどうか今では自信が無い。
 
「靴なんかあったか? 久美ってさ、想像と記憶をごっちゃにするところあるじゃないか」と、啓太郎には言われた。再会後、幼い頃の思い出のひとつとして、沼に落ちた日のことを話したときだ。啓太郎は沼に落ちた事さえ覚えていなかった。

 しゃがんでいるわたし。一面の花びら。母と紐靴のおじさんの足、話し声、笑い声、おじさんの悲しそうな目、沼、花びら、花びら、花びら……。

 おそらく正しくは繋がっていないバラバラな記憶、淡い色のついた映像の断片たちの、どこまでが本当なんだろう。言葉にするほど分からなくなりそうだった。

 元々うまくいってなかったらしい両親は、わたしが中学生のときに離婚し、父はすぐに別の家族を持った。ひとりになった母を見ながらわたしは、紐靴のおじさんのことを時々思い出した。どこからかまた母とわたしの前に現れるのではないかと。むしろ、そうあるべきじゃないかとさえ。
 けれどもわたしの知る限り、二度とおじさんの存在を母のそばに感じることはなかった。

 やはりあれはおじさんの靴だったのではないか。 
 おじさんはあのとき既に、沼の底に深く沈んでしまっていたのではないか。
 そんなホラーじみたことをふと考える。もちろん、限りなく比喩的な意味で……なのだけど、そうでなくては困るのだけど……。

 たった今この場所で、母はなにを思っているんだろう。

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「おーい」という声がして、坂の上から啓太郎が大股で歩いてきた。
「遅いからどうしたかと思ったらこっちか。今日はわざわざ来ていただいてすみません」
 後半は母に言って、啓太郎は頭を下げた。
「つい、懐かしくて立ち止まってしまったの。待たせてしまってごめんなさいね」
「いえ……でも、ずいぶん変わっちゃったでしょ? この辺」
 そう言って、啓太郎も母と同じように空を仰いだ。
「マンションの建設反対運動とか、結構派手にやってたのも嘘みたいですよね」
「そんなのあったっけ」
「ほらな、俺の記憶力のことばっかり言うけど、久美だって覚えてないこともあるんだぜ」
「お母さんはどう? 覚えてる?」
「そうね……」
「全部覚えている?」
 わたしはちょっと意地悪に尋ねた。
「普段はすっかり記憶の底に埋まっていても、忘れないことはあるわね」
「忘れられないこと、じゃなくて?」
 恐る恐る母の顔を見ると、ほんの少し微笑んでいるように見えた。でもその目は、あのときのおじさんの目のようだった。

「忘れられないことじゃなくて、忘れないこと。
 あなたはこれから啓太郎くんと、そういう思い出をたくさん持てるのね」
「啓太郎は病的に記憶力がないけどね」
 なんだよ、というように啓太郎が口を動かす。
「それは、ふたりで補い合えばいいのよ。それぞれに覚えていることが違うから、思い出話をするのが楽しいんじゃない?」
「そうですよね」と啓太郎。
 そうだよ。
 わたしはお母さんのように、大切な記憶を埋めたり、たったひとりで思い出すしかなくなるのはいやだ。心の中でそうつぶやいたら、ぽっかりとあの靴がまた目に浮かんでくる。

「桜の木も、すっかり無いのね……」
 母がそう言いながら見上げたマンションの外階段のあたりを、わたしは啓太郎と手を繋ぎながら見上げた。
 
 踊り場に広げて干してあったピンク色の傘がひとつ、ついと風に押され、つつつと行き止まりまで流れると、くるりと向きを変えて動きを止めた。
 舞い上がり、柵を越えて舞い降りれば花びらのようであっただろうに、傘は傘のままそこに留まった。
 まるで、母の恋のようだと思った。  

<終>
 
   
(以前、短編投稿サイトに参加したことがあり、その時に「漢字一字のタイトルで」という縛りで書いたものを、改めて書き直しました。最後までありがとうございました)


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