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しずく

 朝、5時前には目が覚める。何も考えず、とにかくベッドから降りて窓を開け、パジャマ代わりのジャージのまま30分のストレッチをする。さて、今日は何曜日だっただろう……少しずつ頭がハッキリして来る頃には、ぼんやりとしていた外も朝の様子らしく見えて来る。

 トレーニングウエアに着替え、洗面所に降りて洗濯機に汚れ物をほうり込む。ブラシで髪を梳かし、顔を洗ったその濡れた手で寝癖をなでつけるだけの身支度で、まだ暗い玄関へ向かう。しゅしゅしゅと静かに、ジャージの裾が廊下を掃く。
 シューズの紐は丁寧に結ぶ。そうして、勉強道具と制服の詰まった鞄を背負いながら、そっとドアを外へ押し開けて息を吐き、家族の誰も起きて来なかったことに満足して空を見上げる。

 ひとりきりでスタートを切る朝。飛び込みをはじめた高一のはじめからずっと、それがわたしの習慣だ。
 まだ眠たそうな街を20分ほど走れば、かつてはスポーツで名を売ろうとしたこともあった私立高らしい、屋内プールのある大きな建物が見えて来る。スピードを緩めて息を整えながら入口に向かう間、オガタを思い出して少しだけ胸が痛んだ。

「オマエといると息が詰まるんだよ」

 吐き捨てるようにそういってオガタは去った。恋人同士でいたのはたった3ヶ月だった。
 オガタダイチは水泳部の中でもひときわ目立つ存在だった。子供の頃からスイミングクラブで鍛えた身体は、それほど高い身長でもないのにほかの男子よりも大きく見え、日焼けした彫りの深い顔、黒目がちの目はいつも目的を持った強い光を放っているように見えた。校舎からは離れた場所にも関わらず、オガタの姿を見ようと、いつもプールの周りには見学の女生徒が絶えなかった。他校の生徒が見に来ていることもあった。

 私は何より、オガタの泳ぎが好きだった。正確にあがる腕、一分の隙もなくまっすぐに水を切る肩に光るしずく。ターンの時の一瞬の静寂。知らず知らず見惚れている自分には気がついていた。
 そのオガタが、朝の私の自主練習の時間にプールに現れるようになった。
 彼はもくもくとプールを往復し、私は高飛び込みを繰り返す。
 もちろんコーチも来ていたが、そのコーチとて熱血というわけではない。やがて私たちはお互いのフォームについて意見を交換するようになり、急速に近づいていった。

 それまでの私は、いつも1人で戦っていた。早起きをし、ストレッチをし、ジョギングをし、プールで泳ぐ。時間が来るとシャワーを浴びて着替え、前日から母が用意しておいてくれるおにぎりを、時にはコンビニで買ったパンをロッカールームで胃に流し込むのが朝食だった。そして、何気ない顔で、まるでたった今家から直接登校してしてきたようなふりをして校門をくぐる。
 そうやって、誰に何を打ち明けることもなく、むしろ誰かに知られることをよしとせずに練習していたのだ。そこにオガタという、いわば共犯者のようなものを初めて得て、心は浮き立った。私たちは一緒に泳ぎ、一緒に朝食をとり、別々に登校した。誰にも交際が知られることはなかった。その秘密感もよかった。

 親しくなるにつれて、私のオガタへの期待は高まった。それは共に上を目指していく仲間としての期待だった。そこそこのタイムは出ていたから、オガタが県大会に進めることは確かだったのだ。努力すればもっと記録が伸びると私は信じていた。もっと、もっとと。
 ところがオガタは違った。
 次第に練習はおざなりになり、ロッカーの陰でキスを繰り返し求め、休日にはプールよりも普通のデイトに出かけたがるようになっていった。それを断るうち、やがてオガタは三日に一度は朝のプールにも現れなくなった。

「ね、どうしたのよ。最近たるんでんじゃない? そんなんじゃこの夏の……」
「うっせーよ。オマエといると息が詰まるよ。毎日毎日水ん中に飛び込んでて何がおもしれえんだよ」
 それは、思いも寄らない乱暴な言葉だった。
「おれはさ、そこそこ早く泳げてそこそこ目立ったらそれでいいんだ。泳ぎたい時に泳ぎたいように泳ぐ。オマエに指図されたくないし、こんなこと、バカみたいに目の色変えてやることかよ!」
「こんなことってなによ」
「こんなことったらこんなことだろ。たいしたコーチもいないお遊びの部活だよ。そこに飛び込みの施設があるからできるだけの飛び込みだよ。おれはただのマツモトが好きだったんだ。むしろ飛び込みなんかにムキになってるマツモトは嫌いだ」
 次の日からはもう、オガタは目を合わせようともしなくなった。

 そうしてまた私は一人に戻った。
 殻に閉じこもり、自分の完璧な勝利への執念だけを燃やす、以前のままの私に戻った。
 ひとりでも平気だ。
 飛び込み台の階段を上るほどに周りの視線は遠ざかり、板の上では全く気にならなくなる。ただ自分の中の恐怖と向き合い、最高の瞬間をイメージしながら飛び出すその一瞬、私は水の一滴になることを目指すのだ。そうして静かにプールの中に溶け込んでいくとき、もやもやの一切を脱ぎ去ることができる…。

 他の誰かに何かを期待しない。期待をしなければ裏切られることもない。ただ、自分自身に期待し続ければよいのだ。

 クラスの、とくに女子からは「気取りや」だの「付き合いが悪い」だの「マツモトさんて、なんか怖い」だのと陰口をいわれているのを知っていた。けれども、誰に何を言われようと私には、誰にも真似のできない私だけの世界があるという自負があった。くだらない仲間になど入れなくても良い。教室ではただ息を詰めて、ひたすら放課後が来るのを待っていた。そうすれば本当の一人になれる。そんな毎日だった。
 ところが…

「マツモトさん!」
 いつものように教室を出ようとする私の前に、前の方の席から椅子にぶつかりながら、クラス一どんくさいタナカが走って来た。
「ねぇ、マツモトさん、今日の放課後は委員会があるって、伝えたよね、ぼく」
 委員会…。学園祭の実行委員会だ。
「ごめん、練習あるから出られない」
「困るよそれじゃ。選ばれたんだから責任は果たそうよ」
「困ってるのは私よ」
 私が文化祭の実行委員に選ばれたのは、おそらく級友たちの悪意からだ。「べつにいいよ」と、まるで意に介さないふりをして受けたけれど、はなからやる気はなかった。どうせたいした仕事じゃないんだから熱血暇人のタナカが一人いれば十分だ。それなのに、タナカは持ち前の鬱陶しさで、どうしても私を委員会に引っ張り出すつもりらしい。
「みんなの学園祭じゃないか、協力するべきだよ」「引き受けたのはマツモトだろ」「みんなマツモトに期待してるんだよ」
 タナカは伸び過ぎた前髪を眼鏡のレンズにかぶせたまま、下向き加減にしゃべる。見ているだけで邪魔くさいのに、言ってることはもっと邪魔くさい。いつの間にか呼び捨てにされてるし…。

「みんなの学園祭って何よ、みんなって誰なの? だったらやりたい人がやればいいじゃない。私は選ばれた委員じゃないよ。押しつけられただけなんだよ。どうせ期待するなら飛び込みの方に期待して欲しいね」
 強化選手選考会は目前だった。
 するとタナカはまた、淡々と反論を始める。決して高ぶらず、顔色を変えることもない。
「飛び込みは、そりゃきみにとっちゃ大事だろう。でもそれはそれじゃん。マツモトはこのクラスの一員でもあるんだからさ、言ってみればみんな仲間だろ」
「あんた本当にそんなこと思ってるの? ホントにみんなのためにとか思って委員をやるつもり?」
「いや…。いや、そうだよ」
「だったらあんたが1人でやればいいよ。1人でもできることだよ。何度も言うけど委員なんか私じゃなくてもできるんだ。でも、飛び込みができるのはこのクラスで私だけだよ」

 それでもタナカは毎日、プールにまでやってきてごたごた言った。
 高い飛び込み台の上からでも、タナカの姿が目に入るようになった。よれよれの開襟シャツからみえる色白の肌。インにしてウエストでぎゅっと絞ったズボンのベルト。いつもひざを曲げたままのような歩き方。入口あたりでオガタたちに小突かれて、右へ左へよたよた動く。「何しに来たんだよ」とでも言われたのか、タナカが私を指差す。オガタが私を見る。私は気づかないふりをして飛び込んだ。
 そういえばタナカが体育の授業をしている姿など見たことがない。そういう時には全く目立たないタイプの生徒なのだ。オガタとは正反対だ。そんなタナカに私のことが分かるはずがない。飛び込みはもちろん、縄跳びの二重飛びだってろくにできない運動音痴に何がわかる。

 けれども、どんなにひどい言葉で言い返しても、タナカはその外見に似合わずひるむことがなかった。馬鹿の一つ覚えみたいに、ひたすら委員会に出るようにと説得をしに来る。
 私のイライラはだんだんと募っていった。

「飛び込みよりも、大事なものだってあるんだよ、マツモトさん。学園祭だって大事だよ」
 ある日、とうとうタナカはそんなことを言い出した。
「飛び込みより大事なもの?」
 そんなものは私にはない。飛び込みは学園祭と比べられるようなちゃちなものじゃない。
「そうだよ、学校にはもっと…」
「ねぇ、飛び込みだけが特別じゃないなら、みんなにとっても特別じゃないよね?」
 私はどんどんプールへと歩く。タナカは小走りと普通の歩きを繰り返しながら着いて来る。
「そうだよ、特別じゃない」
「じゃあさ、私が実行委員やるなら、逆にみんなが飛び込みやってもいいわけだよね」
 むちゃくちゃを言っているのは分かっていた。分かっていたけれど私が私でいられるたった一つの砦を守ろうと必死だった。跳び込みは特別だ。このプライドは誰にも侵されたくない。
「学園祭に比べたら飛び込みなんか屁でもないって訳? 面白いじゃない」
「いや、そうは言ってない。ただ」
「言ったじゃない! 飛び込みより大事なものがあるって!
 だったらやって見せてよ! 特別じゃないなら出来るでしょ。
 タナカに飛び込みが出来たら、実行委員会でも何でも出てあげるわよ」

 それで、終わりのはずだった。呆然と立ちすくむタナカの脇を、私は内心で高笑いしながら更衣室に去るつもりだった。
 ところが、タナカはいきなりプールへ向かって走り出した。見る間に飛び込み台の階段に飛びつく。焦って追いかけたけれど、オガタたちに囃されながら、見かけに寄らず軽々とタナカは階段を上っていく。
「やめなさいよ! あんたにできる分けないでしょ! 死んじゃうよ! 知らないよ!」
 委員会に出ると言えば、すぐにでもタナカは無茶をやめるのかもしれない。けれども、どうしてもそれは言いたくない。どうせ直前で高さに怖じ気づいてやめるだろうとたかをくくってもいた。

 けれど、タナカは飛んだ。
 追いついて私も、飛んだ。

 水の中、制服のスカートは一度ふくれあがり、やがて足にからみついてきた。
 ブラウスは肌に張り付き、袖が肩の邪魔をして腕が思うように上がらない。
 いつものプールの中なのに身体は何倍も重かった。
 その中で必死にタナカを探した。
 ここでタナカにもしもにことがあったら、私の選手生活も危なくなる。
 キラリと何かが光った。眼鏡だ。
 眼鏡だけは無くすまいと必死だったのか、それをしっかりと手に握ったタナカが、放心状態になって目を白黒させている。
「ったく…いい根性だよ…」
 ベルトに手をかけ必死でタナカを助けながら、他の部員を呼んで、やっとのことでプールサイドに上がった。ひとしきりタナカは咳き込んだ。
 前髪の張り付いた顔は床のタイルよりも蒼白で、肩はがたがた震え続けている。よく聴いてみると、声にならない声でうわごとのようにタナカは繰り返していた。
「すげーな、すげーよ、マツモトは…」

 ほっとすると同時に、髪から滴るプールの水と共に私の目から涙があふれはじめた。オガタに去られたときにも流さなかった涙が、なぜだかぼろぼろあふれていた。
 いったいなんなのよ。
 何がそこまでタナカを駆り立てるのか、学園祭の何が面白いのか、実行委員がなんなのか、なんだか分からないしうざいけど、スポーツマンたるもの、約束を守らないわけにはいかないじゃないの。
「わかったよ。行くよ、委員会」
「そう…良かったね、マツモト…」
 なにが良かったねだよ。震えるタナカの肩をつかんだままだった私の手は、いつの間にか逆にポンポンと、タナカに慰められていた。
 私の手に触れるなんて10年早いんだよと、思いながらその手を外して、震えの収まりかけたタナカの肩を突くように弾いて笑ってみた。
 タナカも笑っていた。いつもの眼鏡もなく、髪は海苔のようにぺっちゃんこに頭に張り付き、そのしずくと涙と鼻水と、もうとてつもなく情けない顔で笑っているタナカ。
 きっと私も同じような情けない顔を今、タナカに見せているんだろう。
「ほんとにすごいな、マツモトさん」
「あんたもすごいよ、タナカ。その顔、サイテー」
「フヘヘ…」
 心の中で凝り固まっていた何かがゆっくりと溶けていく。胸の奥底から沸々とこみ上げて来るおかしさが、私を暖かく包んでいった。



* このお話は、「彩り月」の中の[8月のものがたり]プレ・ストーリーです。初出は2002年頃。
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