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(6)
牧野の椅子は教会の椅子を含めて19脚あった。 そのひとつひとつにまつわるちょっとした話……例えばこの木はどこで手に入れただとか、この座面を近所の酒屋の痔主のおやじさんが気に入ってだとか……を聞きながら、ぼくは牧野と一緒に椅子を並べていった。 あるものはきっちりと真っすぐに、あるものは後ろ向きに、あるものたちは向かい合わせに、どれも実際に座ってみることができるように、並べては眺め、眺めてみては動かした。 ときどき、牧野は部屋の入り口に立って腕組みをして部屋を見渡した。 「教会の椅子、やっぱり聖書入れが見えるように置いた方がいいのかなぁ。どう思います? 香坂さん」 「いっそ、部屋のど真ん中に置いたら?」 「そうか、なにもまっすぐな通路にしなくてもいいですよね。そうかそうか」 牧野とそうやって椅子を並べていると、鈴村との放課後を思い出した。 ほこり臭いような、西日のあたる教室で、ぼくと鈴村の間にはいつもいくつもの机や椅子があった。彼女のすぐそばには容易にたどり着けず、なかなか触れることもできなかったぼくにとって、教室の狭い通路は行き止まりの迷路のようだった。 -- ねぇ、香坂君て、お蕎麦は好き? -- 好きってほどでもないけど……いや、どっちかといえば好きかなぁ……どうして? -- わたしね、お蕎麦が打てるのよ。去年の夏に修行したの。 -- へぇー。お蕎麦屋さんにでもなりたいの? -- うーん……そうね、なってもいいかな。食べに来てくれる? 香坂君。 「あ……」 「どうかしました?」 「牧野さんのご実家って、お蕎麦屋さんだとか……おっしゃってましたよね」 「ええ、じいさんの代からの古い蕎麦屋なんですけどね、味はぼくが保証しますよ。香坂さん、お蕎麦お好きなんですか? だったら一度、長野の方にいらっしゃいません? 彼女と一緒に……」 「彼女?」 「ええ」 牧野はそう言って、ごく普通に微笑んだ。でもぼくの顔は複雑だっただろう。牧野と話していると、高校時代に鈴村が話してくれたことがふいに甦る。 結局ぼくは鈴村に、部屋の椅子のことも牧野のことも訊けずにいた。 椅子のポケットに入れておいた名刺を見たはずの鈴村も、牧野については何も言わなかった。 あれから顔を合わせることはほとんどなく、実際、その時間もなかった。 だから、展示会の手伝いをすることになったことも、写真のことも、鈴村には伝えていなかった。 ぼくからは、なにも。 写真の手伝いはマキちゃんに頼んだ。頼んだと言うより、話を聞いた彼女がやりたがったという方が正しい。「わたし、昼間の香坂さんに興味あるんですよ」と。 音大から直接やってきたマキちゃんは、バイトの時よりも上等(だと思える)ジーンズに、真っ白なコットンのシャツで、ちゃんとピアスもしていた。なんという石かわからないけれど、濃いブルーの小さな石だった。 「ピアスはめてるの、初めて見たよ」と言うと、 「香坂さんは真夜中と明け方の私しか知らないですもんね」と言って、そばで聞いていた牧野を変に驚かせた。 「香坂さんの昼間の交友関係なんか知らなかったからびっくりです。ちゃんと昼間のお友達もいたんですね、しかも男性の、こんな素敵な」 ぼくだけひどい言われ方だ。 ふたりは「牧野です」「マキです」と自己紹介しあうと、「牧野です」「マキです」「牧野です」「マキです」と何度も言い合っておかしそうに盛り上がってさっさと親しくなってしまったから、なんだかぼくはまた余分な嫉妬をするはめになった。 それでもふたりが勝手に話をしていてくれると楽だった。 ぼくはひとりでカメラを構え、必要な指示をマキちゃんに出す。マキちゃんがレフ板を持ったまま牧野とおしゃべりを続けていても、おしゃべりはカメラに写らない。 「椅子だけがこんなに並んでいると、なんだか椅子とりゲームがしたくなっちゃうなぁ、わたし」 「俺は椅子とりって、苦手だったな」 「そうなんですか? 牧野さんてとってもすばしっこそうじゃないですか」 確かに……。 「なんかほら、あれって誰かひとりが余るわけじゃない? それを見るのがイヤだったな。誰かと重なってひとつの椅子を取り合うのもいやだった」 へぇー……ぼくはいつもそのあぶれる方の奴だったよと、言いかけてやめた。 「その点、椅子の方はいいですよね、絶対に余らないんだもん」 「そうだよね、必ず誰かが腰掛けてくれて、ほっとしてくれる。椅子って幸せだよな……」 -- 「椅子って幸せよね」 -- 「どうして?」 -- 「だって、必ず誰かが座ってくれるじゃない? 腰掛けて、ほっとして……」 -- 「尻に敷かれる……とも言えるけどね」 -- 「やだなぁ、もう、香坂君」 -- 「ぼくも椅子に、なりたいけどさ」 -- 「それって告白?」 牧野の言葉がまた、鈴村の言葉とシンクロする。 シンクロしているのは過去だけなのか、現在もなのか……? 「だから、牧野さんは椅子を作ってるんですか?」 「え? あぁ、そうかもしれない。君にやすらぎを……なんて」 「もしかして、誰かひとりの人のために作ってたりして?」 「あ、マキちゃんするどいじゃん」 「えー? そういう人いるんですかぁー? 残念だなぁ、牧野マキっていいと思ったのに」 マキちゃんだってちゃんと恋人がいるくせに、まったく調子がいい。そうやってあっちにもこっちもいい顔をして…… だめだ。集中できない。 カメラを下ろして振り返ると、窓の外はオレンジ色に染まり始めていた。 放課後の時間だ。 「悪いけど、ひとりにしてくれるかな」 「あ、ごめんなさい。わたし、はしゃぎすぎちゃったかな……」 「違うんだ。ちょっと、ひとりきりでやってみたくなった」 ぼくはそう言って牧野を見た。 「いいですよ」 屈託なく牧野は笑って背を向けると、マキちゃんを促して部屋を出て行った。 その後ろ姿にふとぼくは物足りなさを感じる。ぼくが出て行って欲しかったのはマキちゃんだけだったのかもしれない。 「ミツくんといるとほっとするの」と、遠い昔に聞いた鈴村の言葉をまた思い出した。 彼女のことをなしにすれば、ぼくは牧野を気に入っていた。話し好きだけれど、必要以上に内側には踏み込まず、それでいていつでもこちらの話に耳を傾ける準備ができている。そんな感じが楽なのだ。 心地よさについ、余計なことまで話してしまいそうになる。 ぼくは話したいのだろうか? 聞いてもらいたいのだろうか牧野に。 何を? ぼくは牧野の椅子に座り、ため息と一緒に天井を仰いだ。 つづく Copyright(c) 2004 sakurai All rights reserved.
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