(15)週末の朝に
 まだ、朝の早い時間だ。キッチンでそっと静かに洗い物を終えたレーコさんが、濡れたカフェエプロンを外して椅子の背に掛けた。窓をあけて、レースのカーテンを慎重に引き直す。ほんの少しずつ、冷たい朝の空気が部屋の中に入り込んでくるのが見える。
 いつもの時間になってから、「おはよう」と、レーコさんはアタシにゴハンをくれた。いつも通りの平和な朝だ。……と、思っていたんだけど。
 なに、この気配……

「レイちゃんて、早起きなんだな。うちのばあちゃんみたい」
 
 ば、ばあちゃん?
 歯ブラシをくわえたオトコが現れて、レーコさんの横で腰をかがめ、水槽の中のアタシを覗き込んだ。
 今まで見たことない顔だ。ぼけぼけの寝ぼけ眼だけど、結構……ううん、今まで見た中じゃ一番カッコイイ! どうしよう、見つめられちゃった。
「藤野君、その歯ブラシは……?」
 レーコさんがびっくりしたように言うと、「俺の俺の」というように、オトコは歯ブラシを口にくわえて自分を指さす。
「そりゃ、わたしのじゃないのはわかるけど。ねぇ、歯磨きは洗面所でしてよ」
 オトコ藤野は「悪い悪い」と手を振って洗面所(といってもすぐそこなんだけど)に戻って行っちゃった。

 しばらくすると、電気剃刀の音がしてきた。
 レーコさんはコーヒーを煎れようとしていた手を止めて、「用意がいいんだね」と少し大きな声で言った。
「んー?」
 よく聞こえなかったんだろう。間延びした声が帰ってくる。レーコさんは肩をすくめて、またコーヒーに戻った。
「秋葉たち、始発で帰ったのか?」
「うん。秋葉くんと典子はそう。千春は夕べ遅く、旦那さんが車で迎えに来たよ」
「あぁー、俺、全然気づかなかった」
「会ってみたかった? 千春の旦那」
「まぁね」
「でも藤野君、ぐっすり眠ってたから」

 夕べはレーコさん、高校のクラス会があって出かけたんだけど、夜は何人かの友達と一緒に帰って来たんだ。「これでやっと、クラス会らしい気分になったね」とか何とか言いながら、遅くまで飲んだりしゃべったりして……。みんなもう帰ったかと思ったのに、まだひとり残ってたんだな。

「うちのおふくろって、夜の仕事してただろ?」
 ひげ剃りの音と一緒に声が飛んでくる。
「だから朝はいつも寝ててさ。うちで早起きといえば、ばあちゃんなんだよ」
 なんだ、その話に戻ったのか。
「土曜も仕事がある奴は大変だよな。あれ? 典子は銀行だろ?」
「それにしても千春のやつ、太ったよなぁ……」
 ジョリジョリウィーンという音と一緒にどんどん違う話をしそうな藤野。でも、レーコさんは慣れてるらしい。
「がっかりした? 千春が結婚しちゃってて」
「うーん、なんていうか、あのころ俺が想像した通りの千春になってて、ある意味感激だったね」

 夕べ、なんだかひとりで焦っていたのが千春さんだな。専業主婦は社会から取り残されるだとか、子供がいると自由がないとか、もう少ししたら絶対に仕事に出るとか、せっかく大学を出たのにとか……。
「あいつってさ、誰かに認められる自分としてしか、自分でいられないっていうか、そういうところあったじゃん。相変わらず回りの評価ばかり気にして、恰好つけたがりなんだよな。
 どうせあれだろ? 旦那さんて人は有名会社に勤めてて、しかもけっこう男前だったりするんじゃないの?」
「当たってる」
「なぁ、レイちゃん、大恋愛ってなによ」
 おいおい、また話が飛んだのか?
「さぁ、なんだろ」
「まぁ、いいけどね。とにかく、千春は千春のままだったよ、うん」

 藤野はタオルで顔を拭きながら洗面所から戻ってきた。レーコさんちのじゃなく、それも自分のタオルらしい。そして思い出したように洗面所に戻って、洗面台の上の水滴をそのタオルでさっと拭った。レーコさんは気がつかないけど。

「コーヒー飲む?」
「ああ、ありがとう」
 そう言いながら、「座っていい?」というふうにゼスチャーをする。人んちで一晩寝ておいて、座っていいの? もないと思うけどね、アタシは。
 でも藤野、なんだか気分のいい奴だ。うん。
「いきなり出張ってことがよくあってさ」
「え? ああ、それで、歯ブラシとかひげ剃りとか持ってるわけね」
「そうそう。パンツの替えまでは持ってないけど」
「聞いてないよ!」
 レーコさん下を向いてくすくす笑った。
 ハラッポが来なくなってから、こんなレーコさん久しぶりに見るよ。

「ねぇ、昔、千春が藤野君を振ったって話、あれ、本当だったの?」
「ああ、本当。……ってことになってるな。どっちだっていいけどね」
「ふーん」
「レイちゃんてさ、誰と誰がつきあってるとか別れたとか、そういう噂に無関心だったよな。女の子が集まってるところ探したって、レイちゃんのことは見つからないんだ。千春はいるんだけど」
「おおー、そんなにわたしのこと探してたんだぁ」
「用があるときだよ、用が! 俺はこれでもクラス委員だったんだぞ」
 ああ、そうそう、そういうタイプだよねぇと、アタシは妙に感心してしまう。優等生だから押しつけられたクラス委員じゃなく、人気投票で選ばれそうなクラス委員。

「千春が藤野君を好きだったのは知ってたよ。いかにも千春のタイプだもの。男前でアタマよくて将来有望で人気もあってさ」
「レイちゃんにそう言われると複雑だね。ほかの誰に言われても全然うれしくないだろうけど」
「藤野くん、本当はわたしのこと好きだったでしょ」
 え? そうなの?
「そう。実はね。昔からずっと」
「わたしも!」
 へ? そうなの?
 ……と思ったらふたりして笑い出した。「んなわけないじゃーん」て。なんだ、つまんない。

「大恋愛したいって、言われたんだよ。千春に」
「へぇー……そんなことあったんだ」
「夕べだよ」
「え?」
「夕べ言われたんだ」
「高校ん時の話じゃないの? なにそれ」
「……だろ? あいつ、今日は帰らなくても大丈夫だからって、勝手にそういうこと言ってくっついてこられても、俺は困るしかない」
「パンツの替えもないしねぇ」
「そうそう。って、違うだろが」

 ふーん。藤野となら、大がつく恋愛ができるのか? アタシもしたいな。

「それでさ、アイツとふたりきりにならないように、みんなでレイちゃんの部屋に押し掛けようっていう話にもってったんだけど、レイちゃんには迷惑かけちゃって悪かったな」
「いいよいいよ。大勢での一次会よりも、ここに来てからの方が秋葉くんや典子ともゆっくり話せて楽しかったもん」
「俺もね、千春のことはともかく、クラス会に出て来てよかったって思えたよ。
 さてと。
 コーヒーありがとう。おいしかった。そろそろ行くな」
「うん」
 レーコさんはほっとしたように立ち上がった。週末だから洗濯とか掃除とか、いろいろいつものようにやりたいもんね。いつまでも藤野にいられても困るに決まってる。
 ところがそんなアタシの予想に反してレーコさんは急に、
「ね、なんか食べていく? たいしたもの作れないと思うけど」なんて言い出した。ひょー珍しい。
「いや、いいよ。駅前でモーニングでも食べて帰るから」
 そうして玄関に向かう前に、藤野はアタシの水槽にまた近づいた!
 そして言ったんだ。
「この金魚、なんだかレイちゃんに似てるね」って。
 誰にそう言われても「へっ」てなもんだろうけど、藤野にそう言われるとアタシも複雑だ。

 レーコさんは「そう?」っていってしばらくアタシを眺めた。
 それから急に、「待ってて藤野君。わたしも朝御飯一緒に行く」って、急いで身支度に行った。
「あぁ。慌てなくてもいいよ。待ってるから」
 なんでもないようにのんびりと言いながら、藤野はうれしそうに微笑んだ。レーコさんには見えなかっただろうけど、アタシは見た。どんな顔をしてもイイオトコだ藤野。わわ、またアタシを見てる。なんか言って!

「おまえはパンツも歯ブラシもひげ剃りもいらなくて良いなぁ」
 ひげ剃り? そ、そもそもアタシはメスなんだぞ。いや、オンナなのよ。見てよこの綺麗なカラダ。
「よく分からない所はあるんだけど、あっさりしているっていうか……」
 アタシ、自慢の角度でくるんと回った。見て見て! と思ったのにどこ見てるんだよ、藤野。
「これとこれがなきゃダメだっていう拘りがあるのは、結構しんどいんだよ。でもあいつはさ、その辺の折り合いの付け方がうまいんだ。昔からね……」
 なんだ、結局レーコさんの話か。ふーん。折り合いねぇ……。アタシから見たら、結構ひきずるタイプだけど?

 その日、レーコさんの留守中に何度か部屋の電話が鳴った。ハラッポからだろうとアタシは思った。
 でも、電話があったことはレーコさんに黙っておくことにする。
 どうせ言いたくたって言えないだろう? ってなもんだけど、とにかく、アタシの心意気はそういう方向だってことよ。
 レーコさんがハラッポのこと、どう折り合いつけてるのか知らないけど、去るものは日々に疎しってことでもいいじゃん。

 いや、藤野の方がアタシの好みだから言うんじゃないけど。
 
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