(2)名前はいらない
アタシ、レーコさんちの金魚。名前は付けてもらってない。
レーコさんは「馴染む」ってことに臆病なのかもしれない。
「俺ね、すずきたくろうだから、スズタクとか呼ばれるんだ。それはあんまり好きじゃないんだけどさ。スズっちとか、タクローとかタクちゃんとか、レーコちゃんの好きに呼んでよ」
酔っ払っているのか、そんな風にべらべらとしゃべるオトコがこないだ新しく来たけど、
アタシは知ってる。
きっとレーコさんは愛称とか使うのも嫌いなんだ。馴染んでしまいそうだから。
だって、レーコさんは「わたしの○○」って言い方をしない。
レーコさんの友達のナホコさんなんか、自分のパソコンのことを「私のパソちゃん」なんて呼ぶけど、レーコさんは「私の使っているパソコン」て言う。「使っている」を省略したりしないんだ。
「名前を付けた方が愛着がもてて大切にできるじゃない?」ってナホコさんは言う。だけどレーコさんは、「名前を付けたとたん自分のものって安心感から礼儀を失うこともあるわ」って言ってた。
「パソコンに礼儀ってなによ」ってナホコさんは首傾げてたけどね。アタシにはなんとなくわかるよ。
だから、スズキさんが頻繁にアタシの前に現れるようになって、レーコさんの寝室の方に行くようになっても、ずっと「スズキさん」は「スズキさん」だった。
そうしてアタシもただの「キンギョ」
レーコさんはアタシに餌をくれるし水の状態の心配もしていてくれるけど、アタシを自分のペットだとは思ってないんだ。たぶん。
アタシもそれが心地よかった。
アタシはアタシ。レーコさんはレーコさんだ。
そんなある日、
「べべちゃん、元気ぃ〜?」
初めてそう呼ばれてびっくりした。アタシのことだと思わなかったけど、ガラスの向こうでスズキさんが指先で水槽を叩いて笑ってる。
「べべちゃん、べべちゃん、ほら、こっちおいで」
「げげっ」と不快に思っていたらすぐにレーコさんが、
「スズキさん、金魚に変な名前つけないで下さい」って言ってくれた。でもスズキさんはにこにこして、「べべちゃんて、この子に似合いの名前だと思わないか? かわいいじゃないか」って……。
するとレーコさんはぷいと横を向いて言ったんだ。
「名前を付けちゃったら、いなくなった時に哀しすぎると思う」
「そうかな。そりゃ金魚はいつか死ぬよな。でも、名前を付けてたってつけてなくたって、その時レーコちゃんは同じように哀しむと思うよ……。
だったら名前を付けてうんとかわいがった方がいいんじゃないの? その時までたくさん」
アタシはスズキさんに500点!て思ったよ。
それからスズキさんは、レーコさんのいないところでなんだかんだアタシに話しかけるようになったんだ。
「他のオトコは来てない?」だとか「レーコちゃんは一人の時、何をしてる?」とか。
教えてあげたいけどアタシはしゃべれない。ただアタシはだんだんスズキさんが来るのが楽しみになって、こっそりスズキさんを「スズッち」て呼ぶようになってた。呼べる訳じゃないけど心の中でね、スズキさんはスズッち。
話しかけられるってこんなに嬉しいもんなんだってアタシは知ったんだ。
そのスズっちがある時哀しそうに、
「もう、レーコちゃんとだめかもしれない」ってアタシに言った。「レーコさんの気持ち、全然わからない」って。
そうして、「べべちゃんにあげる」とつぶやいて、小さなリングを水槽の中に落としたんだ。
リングは、くるくるまわりながら作り物のプランツの陰に止まった。
「似合うよ、べべちゃん。元気でね」
アタシはこんときほどしゃべれないことを悲しく思ったことなかった。教えてあげたいのに、教えてあげたいのに……。
それからスズっちは来なくなった。レーコさんは元気がなくなった。アタシもなんだか具合悪くなった。
ねぇ、レーコさん、いっぱい好きになったことを後悔するのと、そこそこにしておいてよかったって思うのと、どっちが幸せかな。
寂しくて泣いてることをスズッちに伝えようよ、ねぇねぇ、ちゃんと伝えようよ。
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