(22)グリーンピースとアスパラガス
 つぶらな瞳がこっちを見ている。椅子に乗って背もたれに前足を掛けて立ち、その足の間に長い鼻面を挟むようにしてアタシを見ている。 
 薄い茶色の子犬。
 ミニチュアダックスだねってレーコさんが言っていた。アタシには初めてのイヌ。
 ……ひょっとしてアンタも金魚を見るのは初めて? もう、そんなにクンクンして水槽に鼻をくっつけたらガラスが汚れるじゃない、汚いなぁ。そんなことしてるとまた叱られるぞ……ほらほら、セリカが気がついた。
「駄目じゃないの、マリィ! お椅子に乗っちゃ駄目って、何回言ったら分かるの! もう!」
 アタシまでどきっとするような大きな声で叱ってイヌを抱き下ろすセリカは、8才くらいのやせっぽちの女の子。マリィはイヌの名前。イヌの方が人間の女の子らしい名前だよね。

「いいのよ、セリカちゃん。マリィはそこにいるのが一番落ち着くみたいじゃない?」と、レーコさん。
「だって、お母さんは、駄目って言うもん……」
 イヌを叱る時以外は小さな声のセリカ。
 きっとセリカはあの口調でいつも母親に叱られてるんだろうな。

 セリカとマリィは、お昼過ぎに千春さんに連れられてやってきた。千春さんはレーコさんの高校の時の同級生。藤野に尾行ごっこをさせたり、ゴディバのチョコをよこしたあの千春さん。とうとう離婚しちゃって娘とも離れ、今は一人暮らしをしているらしいよ。
 今週末はセリカが母親のところに泊まれる日で、母娘水入らずで過ごす予定になっていたのに、千春さんに急な用事ができてしまったんだ。元旦那は旦那で既に予定があるから、今更セリカを戻して「また別の日に」というわけにもいかない。というか、同居していた舅姑の手前、意地でも帰したくはないらしい。
 だから、
「わたしも夕方には戻れるし、明日はずっとセリカとゆっくりできる。だから悪いけどレーコ、ちょっとの間だけこの子を預かっといてお願い」っていうわけ。とんでもない友達だねまったく。
「この子、自分のことは自分でできるから心配しないで。トイレトレーニングもしてあるし、餌と水はこれで、おやつと、あとこれ、お気に入りのビデオ。じゃ、よろしく」って、娘のこともイヌのこともごっちゃに頼んで行っちゃったよ。

 セリカは母親と違って大人しい子だ。邪魔にならないようにと気を遣っているようにも見える。レーコさんはレーコさんで子供の構い方がわからないらしい。部屋の中は妙にシーンとしている。

「マリィはお母さんが買ってくれたの?」
「うん」
「ふーん、そうなんだ……」

「セリカね、もうすぐ三年生になる」
「そう、楽しみね」
「うん」

 何を話しても概ねこれくらいの会話しかなりたたない。お互いに興味がないからわざわざあれこれ尋ねない。そんな感じで、仲良くしようっていう努力が全く見えない。
 いいのかね。
 セリカは持ってきたビデオを観たり、本を読んだりしている。レーコさんが外に行こうかって誘ってみても、「いい」って首を振る。千春さんが置いて行ったスナック菓子にも手をつけない。
 本当に子供らしくなくて、わかりにくい子だよ。
 アタシのことも最初にちらっと見たきり、全然関心ないみたい。ま、子供に関心を持たれても面倒なだけだからいいけど。

 イヌはそんなセリカの周りをせっせせっせと落ち着き無く走り回ってたと思ったらコテっと眠り、また走り回ってはアタシのところに来て鼻面を寄せる。こいつはこいつで、どうしてここに居るのか分からなくて不安なんだろう。
 子供がひとり増えたのに、部屋の中は静かさが目立つ。マリィだけがあちこち嗅ぎ回ってはいたずらをやらかし、その度にセリカが大きな声で叱るからびっくりする。
 レーコさんはマリィを撫でたり構ったりはしない。いつものように本を読んだりして、知らん顔をしているようにも見える。
 三者三様にただ、時間が過ぎるのを待っているみたいだ。
 そして、そんなときに限ってなかなか時間はたたないんだな。千春さん、遅い。

 そうこうしているうちに、どんどん外は暗くなってきて、レーコさんは夕飯の心配をはじめた。千春さんはなにも言っていかなかったけれど、何か食べさせないわけにはいかないよね。アタシもお腹空いた。
「お夕飯作るけど、カレーでいい?」
「はい」
 キッチンに向かうレーコさんは、とりあえずするべきことが出来てほっとしているみたいだ。
「久しぶりだな……カレー作るの……。ねけ、セリカちゃん、カレーにグリーンピースなんか、いらないよね?」
「あ、はい、嫌いだから」
「そっか……」
 あ、カレーにグリーンピースといえば、ハラッポのお気に入りだったんだ。グリーンピースってのがハラッポらしいんだよね……なんて、アタシまで懐かしくなっちゃったじゃないか。

 千春さんが帰ってきたのは、カレーが煮込みの段階に入ったころだった。
「ごめんね、遅くなって。さあ、セリカ、すぐ出るからお手洗い済ませておいで」
「そんなに急がなくても、よかったら千春も夕飯……ああそうか、親子水入らずの方がいいか……」
「ごめん、レーコ。実はわたしもね、今朝のうちにカレーを作っておいたのよ。アスパラ入りのカレー」
「アスパラ?」
「うん、我が家の定番。知ってる? 藤野くんちのカレーもそうなんだよ。
 高校時代にそれ聞いてから、いつの間にかカレーと言えばアスパラ入れるようになってたのよね、わたし」
「へぇー……初めて聞いた」
 へぇーぇ、千春さんはそんなに藤野のこと好きだったんだ。
「セリカの名前もね、彼が最初に買った車の名前だったりして」
「うそ、そんなことで娘の名前決めたの?!」
「うそよ、うそうそ。やだなぁ、レーコったら。冗談に決まってるじゃない。
 あの子の名前は旦那が決めたのよ、芹香ってさ。セリナズナゴギョウハコベラホトケノザの、セリ、よ」
 続きはスズナスズシロだね?
「……で、マリィっていうのはたぶん、新しい女の名前なんだと思う」
「しっ……」
 セリカがトイレを流す音が聞こえてきた。千春さんは肩をすくめて話を変えた。

「レーコは最近、会ってる?」
「え?」
 だれにだれに? ってアタシまで焦っちゃったよ。
「藤野くんよ。元気にしてるのかな」
「あぁ……そういえばしばらく会ってないな……」
「そうなんだ」
 そうなんだよ、アタシも残念だけど。 

 お手洗いから戻ったセリカはひとりでせっせとマリィのものを玄関に運んだ。トイレとか、餌とか。
 それを千春さんが車に運び始める。寒いからと、セリカはリードをつけたマリィを抱いて部屋で待たされている。

「あんまり遊んであげられなくてごめんね。なんかわたし、慣れてなくて」
 なんで子供相手に照れてるんだ? レーコさん。
「あの……カレー、作ってくれたのに、ごめんなさい。
 アスパラが入ってないカレー、食べたかったんだけど……」
 それに、お腹もすいてるだろうなぁ。
「もしかしてアスパラガス、苦手なの?」と、レーコさん。
「お母さんには言えないけど、カレーに入れるのはちょっと……」
「そっか」
 レーコさん、思わず笑ってしまった。
 セリカもつられて笑った。
「あのね、それからね、マリィっていう名前はわたしがつけた名前なの。
 大好きな絵本に出てきたイヌの名前なの」
「そう。そうなの。素敵な名前をつけたね」
「うん。あと、あと、それからね」
 今にも千春さんの足音が聞こえてセリカは早口になる。
「レーコさん、美人ですね」
 おおー、お世辞がうまいのは千春さん似かな。本心かな。
 セリカは母親が迎えに来てほっとしたからなのか、別れ際になってやっと打ち解けてきたみたいだ。
「またおいで」
 って、言っちゃったよレーコさん。そんなこと千春さんに聞えたらあてにされちゃうぞ、知らないぞ。

 レーコさんにちょんと頭を撫でられると、それが合図だったみたいに、セリカは靴を履き始めた。
 その隙にマリィが短い脚でアタシのところに走ってきて、また椅子によじのぼって背もたれに顎を乗せた。
 なになに、オマエもアタシに美人だって言いに来た?
 でもマリィはすぐに玄関に戻って、セリカの腕の中に収まった。置いていかれたら大変だもんな。

「これで忘れ物ないかな。
 レーコ、今日はありがとう。恩にきるわ。藤野くんに会ったらよろしくね」
 まったく、その恩はいつ返してくれるのやら、千春さんは「またね」って、慌しく玄関を出て行く。セリカとマリィだけが振り向いて、手としっぽを振った。

 ひとりになるとレーコさんは、丁寧に掃除機をかけた。マリィが乗っていた椅子も雑巾でぬぐった。
 それからキレイにテーブルを拭いて、一人の食卓を整えた。

 アスパラもグリーンピースも入っていないカレーライス。
 スプーンですくって目の高さに掲げて、レーコさん、くすりと笑った。
 誰を思い出したのかな。

   ← ...index...