(28)メダカの飼い方忘れ方
 ふふーん、ふふふーん。
 今日は藤野がいるから水槽の端から端まで行ったり来たりしちゃうよ。藤野とレーコさんが仲よさそうなのも嬉しいんだ。

「なぁ、ずっとそうやって、化粧もしないで一日中見てたのか?」
「だって、気になって仕方ないんだもん。ちゃんと生きてるかなぁって…」

 ……というのはアタシのことじゃない、メダカの稚魚の話だ。
 昨日、セリカ(レーコさんと藤野の元同級生である千春さんの娘、8歳)が、100円ショップで買ったという水槽に入れて持って来たんだ。メダカを家で飼育するのが夏休みの宿題なんだけど、旅行に行っている間だけ、レーコさんに面倒を見ていて欲しいんだって。
「金魚もメダカも一緒だからいいでしょ?」なんて、千春さんが軽く言ったのにはアタシもレーコさんもむっとした。でも、セリカがきっぱりと「レーコさんだから預かって欲しいんです」って言ったから預かったんだ。

「それにしても気にしすぎだろ」
「預かったことを後悔したくないし、3日間だから、その間はちゃんと心配していたいんだ。ずっとだったらきっと、わたしの方がおかしくなっちゃうけど」
「そういや、金魚は放ったらかしだよな」
 ドキッ。
 そりゃアタシは今、メダカに嫉妬してるけど。メダカはアタシよりもちっちゃいんだからしょうがないというかなんというか…。

「今無理しないでいつ無理するのよ……か」
「なあに?」
「いや、おふくろが言ってたことを思い出した」
「お母さん、どうかしたの?」
 藤野のお母さんは「スナックのママらしいママ」(レーコさん評)だ。お父さんは小さい時に亡くなっていて、藤野はおばあちゃん子。お母さんには萩さんという、幼なじみの恋人みたいな人がいるんだよね、確か。

「萩さんがさ、入院してるんだ。手術したの二度目なんだけど」
「悪いの?」
「癌……なんだよね。それでおふくろのやつ、今なにやってると思う? 清掃スタッフだぜ、病院の。夜はあの厚化粧して店に出て、昼はすっぴんで掃除婦」
「萩さんのそばに居たいから……?」
 そう、萩さんにはちゃんとご家族があるんだ。だから、いかにもスナックのママ的なママがお見舞いに行く訳にもいかないよね。

「店のお客さんの伝で潜り込んだんだろうなぁ。家の掃除だってろくにしないのに、毎日、朝からはりきっちゃってさ。売店の手伝いもしてるんだぜ。一日に二回、商品を乗せたワゴンを転がして病室を回るんだって。車内販売みたいだよな」
「お母さんの方が参ってしまうんじゃない? 大丈夫なの?」
 なりふり構わずって言うの? そういうの。
「俺もそう言ったんだけど、そしたら、今無理しないでいつ無理するのよ、って。ずっとのことじゃないからこそ、やりたいんだって。まぁ、萩さんが退院して自宅に戻っちゃったら何も出来ないもんな…」
「そうか…。萩さんは幸せだね、そんなに思われて」
「迷惑じゃなけりゃいいんだけどな……。とにかくおふくろとしては、何もできなかったっていう後悔をしたくないらしい」
 そういうのって、自分勝手とは言わないのかな…と、アタシはちょっと考える。たぶん、レーコさんも考えちゃう方だろうなと思う。相手がメダカなら迷惑も何もないけど…いやいや、メダカだって人間にずっと見られていたら迷惑かもしれないんだけど。

 ベランダから南風がひゅーと入って来て、冷蔵庫にマグネットで止めた「メダカの飼い方」がピラリと音をたてた。セリカが学校でもらってきたプリントだ。餌のやり方、水の替え方、卵が生まれたら…と、メダカの飼い方が箇条書きになっていて、その最後に、「でも、それでも死んじゃったらしかたがない」って、赤鉛筆で書き足してあるのは、きっとセリカが、レーコさんのために書いたんだろう。

「レイちゃんだったらどうする?」
「え?」
「おふくろの立場だったら、同じことする?」
 え? 藤野が入院したら? それとも?
「どうかな…できるのかな…」
 レーコさんは、ほんの7ミリくらいの、落ち着き無く動き回るメダカをじっと見て考えこむ。蝉の声と、遠くから吹奏楽の音合わせの音が風に乗って聞こえてくる。ソーミードー、ラーファードー、シーソーミー…

「なんだよ、そんなに真剣に考えなくていいよ」
「あ、…うん、そうだね」
「そうだよ。レイちゃんは堂々と俺の枕元に座ってればいいんだから」
「え? 藤野くん、入院するの?」
「そうじゃないけど! レイちゃんはおふくろみたいなことするなよってこと」
「うん…」
 でもレーコさんはまだ心のどこかで考えているらしい。もしも、もしも…と。
 そうして独り言みたいに、
「やっぱり、好きな人が元気で同じ空の下に生きていたら、それだけでも幸せなことだね」と言った。

 きっと藤野には、レーコさんがなにを思って言ってるか分からないだろうなと思った。なのに、
「そういう風に言うなよ」って、珍しく批判的な口調で言い返すからアタシは驚いた。
「どうしてそうやって、最悪の場所から振り返るみたいな言い方するんだよ。
 そりゃ、同じ空の下でお互いに元気で生きていることは素晴らしいことだけど、同じ屋根の下で一緒に暮らしていける方がずっといいじゃないか」
「そうだけど……」
「萩さんに惚れてるおふくろのこと、不幸だなんて俺は思ってないけど、でも、こそこそしなくてもいい関係だったら、その方がずっとよかったと思う。俺は、レイちゃんにはちゃんと贅沢な幸せになってもらいたいよ」
「贅沢な?」
「そうだよ」
 そこで藤野はわずかに胸を張ってレーコさんに向き合うと指を折りつつ、
「”ハンサムでスポーツ万能で仕事ができてやさしくて健康な素晴らしい男性に愛される幸せな人”ってさ、世間の皆さんから羨ましがられるくらい、レイちゃんは贅沢な幸せになるべきなんだよ」なんて、言いきった。

 えーと、そのハンサムでなんとかでっていうのは藤野のことですかぁ? さすがのアタシも赤面しちゃうんだけど。
「そんな素敵な人いるかな。いたとして、わたしなんか相手にしてくれるかな」
「いる! する!」
 その言い方に思わずレーコさんは笑う。「千春なら、”極上の男との極上の幸せ”とか言いそうだね」
「そうだよ。アイツなんかさ、あんないい旦那いたのにつまんない浮気して、その相手に捨てられた上に離婚して、一人娘とも離れて暮らしてさ、それでもまだ極上の男と大恋愛がしたいとか言ってるんだぜ? どんだけ自分が安く見られてるかも知らないで、今が人生最大のモテ期かもなんて浮かれててさ、ったく…」
 へぇー、なんか藤野はアタシやレーコさんが知らないことまで千春さんのこと知ってるみたい。
「レイちゃんもアイツくらい贅沢言えばいいじゃないか」
「でも、わたしは贅沢な幸せじゃなくたっていいよ…何が幸せかなんて人それぞれだよ」
 人それぞれって便利な言葉だなぁ。金魚も金魚それぞれだけど、そんなことはわざわざ言わないもんだよ。

「そりゃあ人それぞれだけど、俺はね、もっとレイちゃんに幸せになって欲しいっていうか…いや、違う、俺だ。俺が、幸せになりたいんだよ。ちゃんと贅沢に」
 あーあ、藤野の口説き文句は相変わらずクサい上に分かりにくい。
 特にリアクションを見せないレーコさんは、わざと分からないふりをしているのか、本当に気づかないのかはアタシにも分からない。

「でも幸せってさ、こんな風に自分の水槽の中にあって、その中で見つけられたらきっとそれで充分なんだ。水槽の外のものが欲しいなんて贅沢言ってみても、得られるものは決まってるんだと思う」
 ちぇ、なんだよそれ、アタシの藤野への想いが無謀だっていう話?
「でもレイちゃんは金魚でもメダカでもないだろ。水槽の中になんかいないだろ。えら呼吸できないだろ」
 そう言いながら藤野は頬の横で、手をえらみたいにぱたぱた。でも、レーコさんは見ちゃいない。

「なぁ、やっぱり今日は出かけようぜ。メダカなんか、ずっと見てたって死ぬときゃ死ぬんだよ。だいたい自然界で生まれた稚魚のどれだけが生き残れると思う? 死んだっておまえのせいじゃないし、忘れちゃえばいいんだよ。忘れていいんだ。外行こうぜ、外!」
 そういうと本当にレーコさんを立たせて、洗面所に押して行った。化粧を直せってこと?
「なによ、外って、どこ行くの?」
 藤野が器用にブラシを使ってレーコさんの髪をとく。レーコさんは洗面台に手をついて鏡に顔を寄せてむくれた顔をしている。こうやって見るとずいぶん親密なんだけど…。
「メダカ、探しに行こうぜ。たくさん見つけて来てさ、セリカを驚かせてやろうぜ」
 そうすれば、一匹や二匹死んでも心配ないだろうと言いだすかと思ったけれど、さすがに藤野もそこまでは言わないらしい。
「そんなに簡単に見つからないよ」
「見つかるよ。たかがメダカだろ? 探してもみないでなに言ってんだよ」

 藤野はキャビネットにUVクリームを見つけて掌に伸ばし、その手でレーコさんの頬を包んでがしがしと塗りつけた。思わずレーコさんがその腕を押さえるくらい乱暴にがしがしと。それから、
「いいか? 男だってひとりじゃないぞ。おまえを幸せにしない男なんか、忘れていいんだぞ」と言った。
 え? それ何の話? ハラッポのこと? 藤野は何か知ってんの? レーコさんが話したの?
「もう死んだと思えばいいんだよ」
「なによ、そんな言い方はひどいよ」
「だって、お前を思ってくれていたそいつはもう居ないんだから、同じだろ」
「やめて! そういう縁起でもない言い方しないで!」
 そうだよ、デリカシーがなさ過ぎるよ。

 思わず拳を振り上げたらしいレーコさんは、涙をこらえて本気で怒っていた。
 ああ、だから藤野じゃだめなんだよなぁと、つくづく思う。でも、そんなこんなも含めて、アタシだけは藤野を赦してあげたいんだ……なんて、自分の届かぬ思い入れにもため息が出る。
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